今直面している私の課題『礼拝の生活』再考、その85

1972年4月23日
『礼拝の生活』再考,85号

(巻頭言)「洗礼の意味―葬式と誕生日―」 

来週の主日午後、洗礼式が予定されています。
この一週間、教会全体で洗礼の意味を深く思いめぐらし、受洗される兄弟姉妹と共に心の備えをいたします。
 
洗礼の意味について考えるために、ローマ人への手紙6章1−11節は、私たちに大切な手掛かりを与えてくれています。今週一度ゆっくりと読み味わうよう心からお勧めします。
そこでは、洗礼の意味を二つの面からパウロは教えています。

一つは、十字架上のキリストの唯一の犠牲の死にあずかり、罪の赦しを与えられる事実です。外的な水の洗いが指し示しているように、私たちのために流されたキリスト・イエスの血のゆえに、すべてのけがれと罪から洗われ自由の身とされる。これが洗礼が私たちの中に思い起こさせ、確信させてくれる恵みの事実です。
 
しかし洗礼はもう一つ大切な意味を持っています。それは、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」(ロ−マ6章4節)、キリストに属する者の新しい生き方への出発です。
救いが、・・・からの救いばかりでなく、・・・への救いでもあると教えられている通りです。私たちは過去の罪から解放され自由の身とされる事実を心から感謝します。
しかし、私たちが自由にされた者として恵みに富んだ歩みを続ける責任を与えられている事実を忘れてはなりません。
ハイデルベルグ信仰問答問70では、
聖霊により新しくされ、キリストの肢として潔められ、罰せられることのない人生を生きる」と、この恵みの事実を美しく表現しています。
 
洗礼式は、キリスト者となる決心の告白であり、信仰と悔改めをもってキリストの十字架の死を私のためのものとして受け入れることです。
しかし同時に、キリスト者になるとは、キリスト者として生きるために、キリストを死人の中から復活させたあの力なくしては不可能なのです。ですから、洗礼が「新生と更新との洗い」と呼ばれている理由もなるほどとうなずけるのです。
 
受洗される方々と共に、今心から、パウロがテトスに伝えている「信頼できることば」を声に出して読み、心の中に味わいます。
 「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、
聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。
」(テトス3章4−8節)。
 
以上のテトスへの手紙のことばをじっくり読み味わうと、洗礼式が古き我の葬式であり、神の聖霊によって生かされ導かれる新しい我の誕生日であると言われるのが、誠にその通りだとうなずけます。
しかし、単にうなずくことと現実に死に生き続けることは別のことです。
キリスト者として生きる。これこそ課題です。

★「キリスト者として生きる。これこそ課題です。」
この課題に焦点を合わせて、青梅で16年、首里で25年、小さな営みを継続して来ました。
その営みを通して、徹底した聖霊信仰・徹底した聖書信仰の確信にそれなりに導かれています。

今、キリスト者として生きる生活・生涯とリハビリの経験との間にある類似点に気付き、
キリスト者、つまり本来の人間として生かされる喜びを、その忍耐と希望を、相手が人間であるなら誰に対しても、リハビリの用語と実体を媒介として伝えたいと願い、小さな実践をなしています。

 しかしもう一つの側面があります。
それは、キリスト者として生きる歩みとリハビリとの間には類似点だけでなく、決定的な区別がある事実です。
 それは、聖書に一貫する終末の希望・終末論です。
死を越えたキリストの復活の事実に基づく絶対的な完成・成就への希望です。

 私の知る限り、リハビリの現場では、死の事実はタブーです。
リハビリを施す者と受ける者のいずれかが死ねば、リハビリは成り立たないのです。
死の事実が厳然とあるにもかかわらず、あたかもないかのごとくにしてリハビリは営まれている。
これに対して、死の事実を直視しつつ、なおからだの復活の恵みの事実に励まされて、リハビリの営みに励む。リハビリの治療をなす者も受ける者も共に。この道をどのように伝え実を結ぶか、今直面している私の課題、嬉しい課題です、感謝。