「全体と個人について」『礼拝の生活』再考その68
1971年12月19日
(巻頭言)『礼拝の生活』68号
「全体と個人について」
今、私たちは幼稚科下級の三歳の子どもから、シメオン、アンナの会のひとりびとりまで、教会全体が同じ主日礼拝の場に集い、唯一の生ける、真の神を声と心を合わせて賛美しています。
普段、幼稚科下級から中学生までは、主日の朝9時から10時まで教会学校で、聖書を学び、主なる神を賛美しつつ生きる生活を学んでいます。
そして現実には、教会全体で奉仕している方は、全教会員というのではありません。しかし、教会学校が、真に、教会学校であるためには、全教会が、教会学校の存在と働きに、心からの関心と祈りを注ぎ続けなければ不可能です。
実際に直接奉仕にあたる人々は一部であっても、それは、教会全体の、公同的な働きなのです。ですから春の野外礼拝と同じく、教会学校と教会の一般礼拝が、このように合同で賛美礼拝の時を持つことができるのは、教会全体にとって非常に大切な意味を持っているのです。
全く同じことが、教会内のひとつびとつの働きについて言えます。
執事会、役員会、教会婦人会、青年会、文書委員会など、さらには家庭集会のひとつびとつが、教会全体とどのような生きた関係を持っているのか、私たちは鋭く見抜かなければなりません。
それらはいずれも、表面的には、一部の人々の自由意志によって運営されているように見えます。しかしそれぞれが主なる神の意思が教会全体に示されるのでなければ、真に教会的な働きとは言えません。
このように、教会学校をはじめ、各種の分会、れぞれの活動について考えてくると、
結局、私たちはひとつの根本的な問いに直面するのです。
それは、教会全体と個人の関係です。全体と個人の課題は、何も教会において重要な課題であるばかりでなく、私たちが生きている生活のあらゆる分野において大きな課題となっています。人類と個人、国家と個人、それぞれの組織や企業と個人から、家庭と個人にいたるまで、全くあらゆるところで全体と個人の関係が問い直されているのが、私たちの生きている現代の一つの目立つ特徴と言えます。
では、教会において、全体と個人はどんな係りを本来持っており、現実に生かされていかなければならないのでしょうか。
まず、第一に考えなければならないことは、教会の存在の根拠です。
存在の根拠と言うと、何か七面倒臭いことを言い出したように聞こえるかもしれません。しかし決してそうではありません。
単純なことです。そして何よりも大切なことです。
教会は、私たちの気持ちによって立っているのではない、ただこれだけの事実です。
私たちが気に入ったから集り、各自がばらばらの砂粒のようにばらばらのままで一時的に集まっているのではないのです。
教会は、ぶどうの木に結びつく枝として、頭に結びつく肢体として、キリストと生ける関係を持つ生命体なのです。決してばらばらの砂粒の集あまりではありません。
教会全体は、「キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」、ですから、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Ⅰコリ12:26、27)生ける全体と個人の関係の中に、私たちは生き続けるのです。
それですから、私たちは、全体に対して、また他の部分、つまり他の兄弟姉妹に対する配慮なくして、気ままに勝手に生きられないのです。これが教会の存在を真に底から支える全体についての意識です。この全体の意識がはっきりするとき、そこには、必ず教会の交わりが生まれてきます。努力してつくる交わりではなく、神から与えられた生きた生命体の部分、部分の間にある生きた関係に目覚めるのです。交わりはつくるのではなく、神の恵みとしてすでに与えられている事実の発見なのです。
しかし同時に、私たちは、教会における個人の尊とさ、その重要性について充分に思いめぐらし、はっきりした自覚をもたねばなりません。
「目が手に向って、『私はあなたΕを必要としない』ということはできないし、顔が足に向って、『私はあなたを必要としない』ということもできません。それどころか、からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(Ⅰコリ12:21、22)。これこそ、真に全体の意識がはっきり自覚されたところに成り立つ、個人の重視です。「なくてはならないもの」として、ひとりびとりの価値が正しく受け入れられるところ、教会はそういう場として生かされねばなりません。
全体のために個人が抹殺されるのではなく、全体との係わりの故に、個人の意味が真に受け入れられる、そこに真に個人の価値が見い出されるのです。
このように、教会は実に全体と個人について、深い課題を与えられた存在なのです。この重要な課題を深く自覚するために、この賛美礼拝は実際的な役割を果たしてくれます。ひとりびとりが声を出して賛美する。それが全体の賛美となるのです。そして、全体として賛美するとき、初めて、個人の賛美が成就するのです。
しかも教会において、全体と個人の正しい関係が見定められるなら、私たちは、人類、国家、各種の組織、家族の一員としても重要な貢献をなすことができます。
しかも、教会は、青梅キリスト教会のわくに限定されません。八重山福音教会{台風の被害を受け苦しむ}の苦しみは私たちの苦しみなのです。不完全な私たちの。
★個と全体は、まさに私の生涯の課題・詩のひとつ。
今、浦安の夢みずうみ村で、見事な好例を見聞きしています。
後ほど報告したいと考えています。