忍耐と希望の道『礼拝の生活』再考61

1971年年10月17日
『礼拝の生活』61号

(巻頭言)「信仰の第一歩―11月5日(金)を前に―」 

キリスト者は信仰がとても重要だと考えます。
しかし信仰が大切だというのは、何もキリスト者に限ったことではありません。
「何の宗教も結局同じこと。何を信じようと大差ない。大切なのは信じようとする気持だよ」とかなりの人々が物分りの良いことを言われます。
何を信じるか信仰の対象を本気で問題にする必要がないとの理解であり主張です。
何を信じるかより、なんでも良いから、どの程度深く信じるかが大切だと考えるのです。
 
しかしながら、キリスト者が信仰という場合、話しが全く違います。
信仰の対象が、聖書が証ししている唯一の神、生ける真の神であるかどうかが、最大の関心なのです。キリスト者は、「人の主なる目的は、唯一の神、生ける真の神の栄光を顕わし、永遠に神を喜ぶこと」だと確信しています。
そして旧新約聖書こそ私たちがいかにして神の栄光を顕わし、神を喜ぶかを私たちに指示する特別な規範であると信じます。
つまり聖書は主に人が神について信ずべき事柄と、神が人に求め給う義務とを教えてくれると考えます。
 
このように、聖書が教える信仰は、聖書を知ることなくしては考えられません。
ですから、「・・・・・・聞いたこのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。・・・・・・そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10章14−17節)と聖書は宣言しています。
 強い、熱心な信仰の程合が第一の問題ではなくで、何を信じるかが、いやどなたを信じるかがキリスト信仰の最も大切な一歩です。

あれから40年。
基本的確信は、深まりこそすれずれたり、ましてや方向や転換しないで、小さな歩みの継続を許された恵みを感謝します。

しかし同時に、幾つかの強調点の移行に気付きます。
制度の教会内に限定していた働きが、その外との接触の機会がそれなりに増えてきました。それに伴い広い意味の恵み、聖霊ご自身の働きを認め感謝する度合いが濃くなってきています。徹底した聖書信仰と共に、徹底した聖霊信仰を意識的に求め主張する営みの深まりです。

 さらに制度の教会に対する無邪気な、絶対的信頼を保持すると同時に、
2006年3月前後の修羅場を通して、ボンヘッファーの言葉の意味を、
「真実を愛する人が嘘をつくことより、
 噓つきが真実をかたることのほうが、もっと悪い」、
私なりに受け止め、忍耐と希望(ローマ8章25節)の道を歩んでいます。