『礼拝の生活を生き抜く』

『礼拝の生活を生き抜く』−1970年代と2010年代ーその一貫性と進展性−
ローマへの手紙11:36−12:2
   2011年7月24日(日)
                             青梅キリスト教会修養会Ⅱ
[Ⅰ]序
(1)午前の伝道礼拝に引き続き、修養会Ⅰで、聖書を集中的にまた組織的に学びみことばを味わいました。その意図・目的で、私たち各自が、生活・生涯に根差して聖書を味わい食べ、聖霊ご自身の導きにより私たちのからだに入ったみことばが、私たちのからだ・身体となり、存在となるようにとの一事です。このような聖書の読み方を、聖書の味読・身読と呼びたいと提唱いたしました。

(2)この修養会Ⅱでは、上記の聖書の味読・身読と深く関係する、「礼拝の生活」に焦点を合わせます。
 『礼拝の生活』、それは1970年6月7日に第1号を、1983年5月22日に621号を送り出した、青梅キリスト教会の週間印刷物のタイトルです。そんなこと今さらと言えば、お年が明らかになります。
621号の後に1983年6月6日に最終号を出したように、1970年5月31日に、準備号を配布しました。その中で、以下のように書き記しました。

「青梅キリスト教会の一員として
 青梅キリスト教会と共に生きる特権と責任を与えられた今、二つの期待が私の心を支配しています。
 一つは、聖書の豊かさを真に味わいたいとの期待です。
神の御言葉である聖書は、私たちの魂を生き返らせ、賢くし、心を喜ばせ、目を明らかにしてくれます。(詩篇19篇7節)。
 教会全体また教会員ひとりひとりが、聖書の豊かさ、真実さに圧倒されつつ、日々生活し、また生涯を生き抜くことを心から期待しています。
実に、
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、
  私の道の光です。」
 
第二の願いは、キリストの体なる教会の豊かさをさらに深く経験したい、この祈念です。
 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリント12章27節)との驚くべき聖句を、青梅キリスト教会の現実の歩みの中で経験したい、そう強く願っています。
 私たち青梅キリスト教会全体・教会員ひとりびとりが、聖書の豊かさとキリストの体なる教会の豊かさを、聖霊ご自身の生き生きとして導きの中で、真に現実的に経験し続けるように心から願っています。
 この二つの期待の内容は、ハイデルベルグ信仰問答が、第三部の「感謝について」のもどで、第一に提示している、「新しきわざ」として明示しているものと同一です。

問86 「われわれが、何の功績もないのに、恩恵によって、キリストによって、救われているとするならば、何故、われわれは、良い行ないを、しなければならないのですか」との問いに対する以下の答えを、私たちは肝に銘じる必要があります。

答「そのわけは、キリストは、御血潮をもって、われわれをあがなってくださった後に、さらに、聖霊によって、更生せしめ、主に似る者として下さって、われわれが、全生涯をもって、この恩恵に対して、神に感謝をあらわし、われわれによって、神が崇められるように、してくださったからなのであります。」(竹森満佐一訳)。
 
牧師としてばかりでなく、青梅キリスト教会の一員として生きる恵みを感謝しています。

[Ⅱ]「礼拝の生活」、その心は
「礼拝の生活」という言葉は、日本新約教団1968年度の夏季聖会の主題であったのを記憶されている方がおられますか。あの主題を私は聖会委員会で提案しました。「礼拝の生活」という言葉は、ローマ人への手紙の力強い福音宣教を要約するものとして、特別な意味をもって私の心に迫り続けていました。
 ローマ11章36節から12章1節への展開を注意しながら、思い巡らします。

(1)ローマ人への手紙全体の構造・組み立てとの関係
 12章1節の「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。・・・」とパウロが語りかける神の恵みにしっかり根ざした励ましの呼びかけを手掛かりに、ローマ人への手紙全体を、以下のように見通したいのです。
 1.1章から11章まで。神の恵み(本当に豊かな!)の内容を明示。礼拝の生活の基盤です。
 2.12章1節から2節まで。神の応答する者として生きた献身。礼拝の生活の源泉です。
 3.13章3節から15章13節まで。献身の現われである日常生活。礼拝の生活の現実。
 このように、大きく三つに分けることができます。
 
 さらに、私たちが直接課題としている箇所の前後関係をもう少し詳しく見ると、パウロが宣言している福音の展開を以下のように分解できます。
 1.真実の神礼拝、11章36節
 2.新しい生きる道、12章1、2節
 3.聖霊の賜物に従い、キリストのからだの一肢体として生きる、12章3−8節
 4.愛の勝利、12章9−21節
 5.この世の権威者に対して、13章1−7節
 6.愛の実践、13章8−10節
 7.終末を目指す生活13章11−14節
以上のような手紙の全体の流れ、また直接な前後関係を考慮しながら11章36節を味わう必要。

(2)ローマ11章36節
 ローマ人への手紙9−11章までは、イスラエル人と異邦人の救いの課題に集中しています。聖書の中でも、神の救いの御業について最も深く掘り下げている箇所の一つです。
神の救いの御業、救いの歴史を熟考しながら、
パウロは、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測りがたいことでしょう。」(11章33節)との思いに満たされ、その深い魂の奥底からの感動の中から、
 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(11章36節)。と讃美がほとばしりでたのです。この短い讃美、礼拝の言葉は、聖書の中心メッセージを実にはっきりと要約し表現しています。
 唯一の、生ける、真の神との関係で、すべてのこと・万物を位置づけています。
万物は、その起源(神から発し)、現在の保持(神によって成り)、終末の目的(神に至る)を、唯一の、生ける、真の神にのみに持つとパウロは明確に宣言しています。
 唯一の、生ける、真ののみを礼拝する一点で、全く鋭く、妥協の余地などないのです。
しかし同時に、万物全体を神との関係で見る、実に雄大で豊かな生き方を提示しています。
このような神礼拝のうちに、徹底的に神中心の思想と生活の基盤を見出して行く、何よりも重要です。
 なぜなら、唯一の、生ける、真の神を、神をあがめる目的で知る事こそ、人生の主なる目的であり、最上の幸せなのです。神をあがめ、神との関係で万物を見るのでなければ、私たちの状態は、本来の人間のあり方からずれ、的外れな、あえて言えば野獣よりも不幸にさえなるからです。
 この事実について、私たちの先達は、以下のように信仰問答で解き明かしています。
ウェストミンスター小教理問答
問1人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 
(3)からだをもって
 11章36節から12章1節への移行は、急転直下とでも言いたい程のものです。
万物の関係で、唯一の、生ける、真の神の栄光を讃美する。この神以外のなにものにも心を奪われない一点から、ローマの教会の一人一人に目を注ぎ、「兄弟たちよ」(12章1節)とパウロは個人的な呼びかけをしています。そうです。主イエス・キリストにあって、神を父と呼ぶ恵みにあずかっている仲間に心の目を向けているのです。
 そして神の恵みに感動し心動かされながら、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい」(12章1節)と心のこもった勧め、心の奥のマグマから吹き出す慰めの言葉を伝えています。それこそままさに、なすべき「霊的な礼拝」(12章1節)なのですから。
  ここで、「こらだ」とは、全存在という意味。
ですから、からだをささげる全き奉献(ほうけん)とは、全生活・全生涯が自己中心(野獣のように)の状態ではなく、自己から解き放たれ、神と人のために生きよとの呼びかけです。そして自己中心の悪霊の縄目からの解き放ちは、すべてのことが神から、すべてのことが神によって、すべてのことが神に至る事実、恵みの事実に目覚め見定めるるとき実現するのです。
 さらに神とすべてのこと・万物との正しい関係を知らされた者として、神から神によってなる自分の生活全体、全生涯を神にささげ他者のために生きる、これがあるべき本来の「霊的な礼拝」(12章1節)なのです。このように、礼拝と生活は、本来全く一致するものです。この事実を、礼拝の生活と呼びたいのです。
 神のために生きるとは、現実の生活にあっては、他の人のために生きること以外ではなく、その方法は、実に多様なものである事実は、12章3節以下でパウロが明らかにしています。その多様なあり方は、「心の一新によって」(12章2節)現実になって行きます。
そして「心の一新」は、神の恵みの事実に全存在を集中し自己中心から解き放たれ、「いのちにあって新しい歩みをするためです」(6章4節)。
 テトス3章4−8節をゆっくり読みながら、心からの底から味わいたいのです。
 「しかし、私たちの救い主のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
  神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
  神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
  それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望によって、相続人となるためです。
  これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」

[Ⅲ]礼拝の生活、2010年代に見る一貫性と進展性(A)青梅キリスト教会において
 この点については、私が話すのでなく、林先生をはじめ皆様から私がお聞きすべきです。
今回の訪問の大きな楽しみの一つです

(B)宮村夫妻・家族の歩みを通して。その一例として、「牧会」の理解と実践
 ★昨年6月7日(月)、著作集出版記念会で、以下の話をいたしました。

−「牧会」の本来の、深い、豊かな理解と実践を求めて−
「(1)序
 牧会は、牧会者である牧師だけがするとの狭い、一面的な理解と主張が幅を利かせている現状に違和感を覚え続けてきたのです。
 これに対比して、私なりの理解と主張の要点を中嶋聡兄が、『愛の業としての説教』の帯に書いた推薦文で提示。

(2)聖書に根拠
 創世記2章15節 本来の人間
「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」

参照創世記3章18,19節 現実の人間
「 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

マタイ11章28−30節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 11章28節だけでなく、29,30節も。正しく、深く豊かに理解し実践。
28節が特定の人だけに限らず、すべての人に開かれているように、29,30節も同様。

(3)中嶋聡兄の場合
「宮村先生は首里福音教会牧師時代、私たち教会員に、『持ち場立場でのそれぞれの活動が牧会である』と言われました。みことばに堅く立ち、それぞれの現場を大切にし、現実現場に即してものを考えようとする姿勢です。
 ご自身の持ち場・沖縄を人一倍愛しつつ、曖昧な妥協を嫌い、先入観にとらわれずに社会や歴史を判断する強さをお持ちです。そんな先生の著作集に心から期待しています。」

中嶋兄は、なかまクリニック院長、宮村の主治医。また宮村の牧師であった教会の教会員であり役員、何よりも神の御前における、人間と人間の20年以上にわたる交流。

(4)集中と展開
牧師の役割の一つ、しかも重要な一つは、教会員各自が牧会できるような説教を、主日礼拝を中心に語り続け、結実を見ること。
 その営みと、著作集の刊行が絡み合えれば幸い。アーメン」

★三人の牧会実例
①山川勝浩兄・総合葬祭やまと社長の場合

中嶋聡・なかまクリニック院長の場合

③佐藤 哲彰兄・千葉商科大学商経学部専任講師の場合

[Ⅳ] 集中と展開 
(1) 集中
 からだ、生活・生涯の重要性、
Ⅰコリント6章19,20節
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

Ⅰコリント10章31節
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

(2)展開
① 説教・宣教者と生活の不可分な関係
 説教の基盤、聖書解釈、その聖書解釈と生き方、生活・生涯。
「木はみによって判断される。人は生きているようにしか聖書を解釈出来ないし、聖書を解釈しているようにしか生きることが出来ない」

②説教・宣教と牧会の不可分な関係
 「聖書を、聖書で」。
 聖書を伝えるとは、単に聖書の内容を伝えるだけでなく、聖書で、聖書をめがねとしてすべてのもの見る。
事実判断と価値判断。聖霊ご自身と聖書に導かれて、判断→生活・生涯。これを広義の牧会。