2012年7月、沖縄からのメール

★女性物理学講師とメールと電話を通して交流を続けています。
 物理学の研究と教育に励む人間・私についての聖書的な自覚が、共通の課題になりつつあります。私としては、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」との信仰告白をより深く告白できる端緒になれば、幸いです。
 今回受け取ったメールは、以下のものです。

「宮村先生
ご返信,ありがとうございました。
ご自宅での学びのときを,懐かしく思い起こしております。
君代姉様にも大変お世話になりました。

 添付の巻頭言(清水武夫、『回顧と展望の原点を共有して』)を興味深く拝読いたしました。
中嶋医師の論文(「心の傷」と「忘れる」)も楽しみにしております。
おかげ様で,この夏を乗り切る元気が出てきたようです。

思いつきではありますが。
記憶にまつわる話のつづきを,以下に記述いたします。

人は,神によって創造された。(創世記一章)
その痕跡を人の脳のしくみ,体のしくみの中に見出すことはできるのか。

人の脳は,創造されたときから今日に至るまで,変化していないのであろうか。
基本的な機能は,そのまま維持されているかもしれない。しかし,善悪を知る知識の木から,その実を取って食べたことにより,脳内で何か,変化が生じたのではないか。(化学反応により,機能の一部が変質したとか。)

 聖霊の働きについて,科学ではどのように理解し,説明されるのか。
 観測することのできる具体的な物理量が存在しないとすれば,実験科学の立場からは,実証することは困難であり,推測の域を出ない。
 一方で,科学的に証明することの意義が問われる。果たして,信仰において意味のあることなのか。

 前述の脳外科医の書物の中で,要所に於いて,心の機能に触れられていたことが強く印象に残っている。心は,人の脳や体に与えられている機能に,強く作用する
とのこと。仮に,心の機能を信仰心と置き換えて考えてみると,クリスチャンにとって 信仰という動機付けが強いほど,脳に働きかける要素が強くなると理解される。

 要するに,人は神に心を向けたとき,脳のしくみ,体の機能を最大限に生かして,地上での生涯を送ることができるということ。結果的に,人生の勝利者となり,人間らしく生きるということが実現されることになる。

 人は,そのように神にあって創造されたことの証しを,生命の営みの中に持っているということであろう。
信仰心こそが,聖霊の働きを保障するものであると思われる。

(★宮村コメント、人間の信仰が、聖書の働きの条件とか前提と受け止められることを危惧。そうではなく、聖霊ご自身の働きにより信仰が起こされ与えれる。)

以上,人について思いを巡らす時間が持てたことを喜んでいます。
当初からの課題のひとつでありました。感謝いたします。

NK」

★メールと平行して携帯電話での対話。研究・教育の現場からの2,3点に集約した報告。
 一つに絞った祈りの課題を電話を通して共に祈る感謝なとき。