「あること」と「すること」『礼拝の生活』再読58
1971年9月26日
『礼拝の生活』58号
(巻頭言)「あること」と「すること」
10月3日の臨時教会総会を前に、教会について、またキリスト者各個人について、もう一度考えさせられていることがあります。
それは、教会として「あること」と教会として「すること」、またキリスト者個人として「あること」とキリスト者個人として「すること」の関係、つまり存在と行為・活動の関係についてです。
教会が存在する事実と教会として活動する面をきっぱりと分けることは確かに不可能です。しかし教会が組織として何か動くことだけが大切だとの考えに支配されて、他の一面を忘れてしまわないように注意したいのです。一見何もしていないように見えるときでも、教会は存在し続け、生き続けています。唯一の、生ける真の神を礼拝する群れがそこにあること、その事実に含まれている重大な意味を認める必要があります。
私たちの日常生活の中でも、その人がそこにいるだけで、何をしなくても、何も話さなくても、周囲の雰囲気があたたかくなるような人に出会います。
教会としても、各個人としても、「あること」の意味深さをもっともっと深く味わいたいのです。
そうは言っても、種々の働き・活動を軽視することにはなりません。私たちは、教会としても、キリスト者個人としても、活動しつつ存在します。何もしないことも行為のひとつです。ですから、目当てをはっきり見据えて、柔軟に活動し続けていくべきです。
「あること」と「すること」の両面は、成長の一事に含まれるのではないでしょうか。総会で共に考えたいものです。
★「存在の喜び」の源泉です。「存在の喜び」は、もみの木幼児園の保育の現場で教えられた恵みの事実、それはそうです。
しかしそれと同時に、いやより根源的に、青梅キリスト教会の現実に味わった恵みの事実であると今にして明確に自覚するのです。
青梅での16年間、教会に向け語り続けてきました。
それと同時に、教会から聞いてきました。
教会に向け書続けてきました。
それと同時に、教会を読み続けてきました。
教会を教え続けてきました。
それと同時に、教会から学び続けてきました。
青梅ばかりでなく、寄居でも首里でも同じです。
教会に、教会から両方向の恵みで、感謝。