『宣教・説教と組織神学』

★数年前、『牧会ジャーナル』誌上でお伝えした以下のこと、最近、再度強調せざるを得ない事態に直面しました。
 要するに聖書全体の統一性の課題です。
ばらばらの文書の寄せ集めではなく、聖書全体は互いに有機的に関わる統一性をもつ、生ける神のことばとの確信を深めています。

『宣教・説教と組織神学』    
宮村武夫

[Ⅰ]序 
 今回、根田編集者より原稿執筆の依頼を受けた際、上記の課題について報告することを可能性の一つとしてお答えしました。それには、理由があります。1960年代の最後の時期から、神学校で聖書学を中心に担当してきました。しかし沖縄聖書神学校で、10年前から組織神学を担当するようになったのでです。またこの小さな神学校が、説教者を世に送ることを直接の目的としているからです。    

[Ⅱ]釈義、組織神学、組織神学に裏打ちされた宣教・説教
(1)釈義と宣教・説教
①共通の基盤。宣教・説教が聖書に基づくものであるべきこと、そのためには説教のテキストとして選んだ聖書箇所の釈義の営みが必要不可欠である、この点は私たちの共通の理解であり、基盤であることに異存がないと判断します。
 課題があるとすれば、聖書そのものがいったい何を主題とし、その主題がどのように展開しているかの把握です。
 さらにその主題をそのように展開している著者の意図はなにかを、聖書テキストの主題とその展開を探る中で掘り下げることが小さくない課題です。この場合、聖書のどの書の著者も、当然のことながら、その書の最初の読者を終始意識して書いている、この+事実に十分意を払う必要があります。
この点を常に確認しながら釈義の作業を進めることは、説教者が語る自分自身と同様に、説教を聴く会衆に対しても等しくあるいはそれ以上に心を配る必用がある事実と密接に関係します。聖書は、最初に書かれ読まれた際も、今ここで語られ聴かれる際も、書き手・話し手と読み手・聞き手の間の対話が鍵なのです。そうです。神の呼びかけに、人間が応答する。この呼応関係・契約関係こそ、聖書の基本構造です。私たちの宣教・説教の第一歩である釈義の作業も、この聖書の特徴に根ざす必要があります。

(2)聖書神学と宣教・説教
 この課題を考慮するとき、助けとなる手がかりがあります。それはマタイの福音書1章1節です。
 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」。
 釈義の作業において注意すべき課題の一つは、聖書と解釈者である私たちの間に世紀の隔たりがある事実を明確に認識することです。たとえば、マタイの福音書と私たちの間には、約2千年の隔たりがあります。この事実に堅くとどまり、マタイのこの箇所が、あの時、あの場所で何を意味したか歴史的背景を大切にしながら探るのです。
しかしそれだけではないのです。アブラハムダビデの間には、約1千年の隔たりがあります。同様にダビデとマタイが描く主イエスの間にも、これまた約千年の隔たりがあります。ですからアブラハムから新約の時代まで、約2千年、文字どおり世紀の隔たりが存在するのです。
 さらに、「イエスキリストの系図」とある「系図」(参照創世記2章4節、5章1節、6章9節、10章1節、11章10,27節、25章12,19節、36章Ⅰ、9節、37章2節)に注目したいのです。
 「系図」という時、私たちの念頭に浮かぶのは、両親とか経過など過去の人々や事々を直接その内容とします。
 ところが、聖書における系図は、創世記に見る実例から明らかなように、子孫とか将来の事々を内容とし、それを指し示すのです。
 ですから、「イエスキリストの系図」は、イエスご自身の十字架と復活に基づく、将来の人々や事々を内容とします。そうです。主イエスの出来事から生み出されるキリスト者・教会を指し示します。最初にマタイの福音書を読んだ人々も現に今読む私たちをも含む,キリストのからだなる全教会。聖なる公同の教会への広がりを、小さな「系図」という単語は内包しています。
 そうです、少なくともアブラハムから新約聖書まで2千年の一貫し、同時に進展する救済の歴史全体を念頭に置きながら、今直面している聖書箇所を味わい、聴従するのです。これが聖書神学的な裏づけの基本です。
 さらに聖書の内部に流れる2千年の歴史に加えて、そのような聖書を解釈し続けた2千年の教会史。どれほどささやかな営みであっても、私たちの説教・宣教は、少なくとも四千年の恵みの歴史に堅く根ざし建つものなのです。この歴史的センス、これは説教者・宣教者にとり掛け替えのないものであり、地道な歩みを通して身につくのです。

(3)組織神学と宣教・説教
組織神学と宣教・説教の関係を考えるとき、いつも意識することばがあります。それは、カルヴァンが、「ジャン・カルヴァンより読者の皆さんに」において記している、以下のことばです。
 「この労作においてわたしの企図したところは、聖なる神学に志をもつ人たちを、神の御言葉の播読にそなえさせ、かれらを導いて容易にここに近づかせ、ここにおいて躓くことなく歩みを進めることができるようにすることでありました。まことに、キリスト教の総体をそのあらゆる部分にわたって包括し、順序正しく分類したならば、だれでもこれを正しく把握するとき、聖書のうちに特に何を探ね求めるべきか、それの内容をどの目標点に向けるべきかについて、容易に判断がつくとわたしには考えられるのであります」。
 上記の中で、「キリスト教の総体をそのあらゆる部分にわたって包括し、順序正しく分類し」とカルヴァンが表現しているものは、組織神学の作業に他ならなず、ここでは、『キリスト教綱要』を指しています。

[Ⅲ]宣教・説教において展開される組織神学(1)カルヴァンは、『キリスト教綱要』を読んでいない
 組織神学の必要性を深く自覚した、聖書解釈者であり説教者は、聖書解釈の作業や宣教・説教の実践と平行して、『キリスト教綱要』を書き続けた事実は、私たちが共通の知識です。しかしここで注意すべき、コロンブスの卵的事実があります。それは、カルヴァン自身は、『綱要』を書き上げるまでは、『綱要』を読んでいないという事実です。『綱要』に体現されている組織神学は、聖書を読む代わりなどできないのです。
 『綱要』、そうです。組織神学を軽視したり、無視するなら、カルヴァンは、驚き呆れると見てよいでしょう。しかし同時に、聖書から目を離したり、聖書を読む代わりに『綱要』を読むと言い張るなら、カルヴァンは悲しみ呆れるでしょう。

(2)旧約聖書新約聖書を読み続けるなかで
 カルヴァン自身は、『綱要』を書き上げるまでは、『綱要』を読んでいないとすれば、彼は何を読んでいたのでしょうか。答えは、明白です。旧約聖書新約聖書を常に目前に置き、両者の一貫性と進展性をしっかりとらえて、何より聖書に聴従し、常に宣教・説教の業に励んでいたのです。
 さらに同じ道を歩む先達として教父たちの書き残したものを細心の注意を払いつつ、聖書解釈の比類ない助けてとして用い続けたのです。 

(3)「・・・つつの神学」としての組織神学
 もう一度、あの「ジャン・カルヴァンより読者の皆さんに」を取り上げたいのです。その最後の部分で、カルヴァンは、アウグスティヌスの書簡から、以下のことばを引用して文章を閉じています。
 「わたしはしんぽしつつ書き
  書きつつ進歩する人の一人であることを告白する」。
 これを、「・・・つつの神学」と呼びたい。
 私たちの課題に即して言えば、
 「釈義、聖書神学、そして組織神学の作業をなしつつ宣教・説教に従事し
  宣教・説教をなしつつ、釈義、聖書神学、組織神学を展開する人の一人であることを告白する」、
確かに「・・・つつの神学」というとき、それは各自の釈義、聖書神学、組織神学の学びを静かに継続する生活・生涯が、主の御手・とき(詩篇31篇前半)の中で用いられるあわれみを覚えます。
 しかしそれだけではないのです。さらに各自における継続は継承へ。どんなにささやかなものであっても、先達からこんな自分へ、自分から後輩へと世代を越えて継承される恵みの営みです。今回ここに記したことまたその背後にある事々は、生涯の恩師渡邊公平先生から受けたものです。一九六一年四月から一九六二年月までの一年間、組織神学と「哲学と神学」の授業を中心に注がれた恵みです。渡邊公平先生は、昨年11月18日(金)、主の御許に召されました。数年前、渡邊公平先生に以下のような報告の手紙を差し上げました。
 「頌主。九月に入り、御地においては次第に秋の深まりが増し、過ごしやすくなっているのではと期待いたしますが、いかがでしょうか。
 沖縄でも、赤とんぼが飛んでいるのを見たりすると、『沖縄の秋』を感じます。
 4月より、沖縄聖書神学校校長の務めを、『キリストのくびき』(マタイ11章29節)と理解し、引き受けました。六年前から組織神学の授業を担当することに重ねて、生涯の最後の段階直線コ−スに入った年代の使命を明示されていると心に刻んでおります。それは、聖書神学ばかりでなく、組織神学に裏打ちされた説教・宣教。宣教・説教において、生き生きと展開される聖書神学、また組織神学をとの課題です。
 そうした中で、『保線夫として』の説教は、やはり一つの節目であることを改めて覚えています。
 また第十一回全国研究会議(「福音主義神学における牧会)における役割(「愛の業としての説教」)を、主からのものと感謝して。
 渡邊公平先生から注いで頂いた学恩を日々感謝して。
        二千二年九月15日
              宮村
渡邊先生」
 学恩の注ぎ。それは、敬愛する後輩が、「神の恵みを、そう、小鳥が母鳥から口移しで餌をもらうように受けられたのだ」と表現している類のものです。ですから、説教と講義、何よりも目の前にいるお一人お一人にとの対話において、聖霊ご自身の導きによるしなやかな喜びを注ぎ続け、渡邊先生からの学恩に報いたい、そう思い定めています。

[Ⅳ]結び 
『宣教・説教と組織神学』についての小さな報告を二つの聖書箇所の引用をもって閉じたいのです。
(1) 一度にすべてではなく
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(ヘブル1章Ⅰ、2節)
  この聖書箇所は、直接には旧約聖書が一度にすべてが書かれたのではないと、その成り立ちについて明言しています。新約聖書を含めて聖書全体は一度にすべて天から下って来たものではい、このすべてが一度でなく、神の御手とも言うべき時の間に聖書は成立して来た事実。そのような聖書に基づく『宣教・説教と組織神学』をめぐる営みもまた、一度にすべてではなく、時の間になされる営みなのです。宣教・説教者の生活・生涯がその事実を担うに相応しく整えられるよう求め続けたいのです。

(2)「絶えず、しきりに」
「アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。」(エレミヤ25章3節)。
エレミヤは、自らの半生をかけての宣教活動がその目的を果たさず、言わば挫折の連続であった事実を、二十三年という年月と共に、「絶えず、しきりに」との生活態度に焦点を絞りながら明言しています。挫折の連続の中で、なおもエレミヤが語り続けることができたのは、単純な事実に基づきます。そうです。「絶えず、しきりに」の現実を生きる聖書記者を通して、聖書は書き記されたのです。同じ原則に従い生きる人々を通して、聖書は私たちに伝えられたのです。
そうであれば、『宣教・説教と組織神学』の課題を委ねられている私たちも、「一寸の虫にも五分の魂」の覚悟をもって、「絶えず、しきりに」の一事に徹することこそ、肝要です。恵みへの応答が恵みなのですから、参照Ⅰコリント15章10節。