『キリスト、信仰の創始者また完成者』

『キリスト、信仰の創始者また完成者』
ヘブル12章2節
2012年7月1日(日) 沼津港町教会     
 
父、御子、御霊・生ける三位一体なる神の御名を崇めます。
[Ⅰ]序
(1)今朝、久し振りで貴教会の礼拝に出席することを許され感謝します。その上、宣教の機会も与えられております。

(2)今朝の主日礼拝では、ヘブル12章2節に意を注ぎ、『キリスト、信仰の創始者また完成者』の宣教題のもと聖霊ご自身による導きを求めつつ、みことばに聴従したいのです。
まずもう一度ヘブル12章2節を新改訳と前田訳両方でお読みします。

改訳「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
エスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

前田護郎訳「信仰の手ほどきまた仕上げをなさるイエスを仰ぎ見て走りましょう。彼は、自分の前に置かれたよろこびの代わりに、恥をいとわず十字架を忍び、神のみ座の右におすわりでした。」

[Ⅱ]キリスト・信仰の創始者
前田護郎訳「信仰の手ほどき」

なにを「初めに」とするか。してはならないものを「初めに」にする可能性を用心したり、すでにそうしている実体・実情を見抜く素朴な澄んだ眼。

神の代わりに初めの位置に置くものは、必ずしも悪いものとは限らない。
たとえば、神の代わりに、私たちの信仰を置く場合。

★エペソ1章4−6節
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

[Ⅲ]「キリスト、信仰の完成者」
私たちの信仰の仕上げをなさるイエス
(1)必ず、完成に導かれるとの確信。
 俗に言う、「終わり良ければ、すべて良し」

(1) いかなる時にも、決して完成した状態にない。
ピリピ3章12節
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

(2) 完成の途上にある者として、慎み。
Ⅱテモテ1章7節
「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」

[Ⅳ] 集中と展開 
(1) 集中 
「イエスから目を離さないでいなさい」。

(2)展開
はじめも完成を、そしてその途上も、主イエスが中心。
主イエスにあって、すべてのことに意味があり、万物の痛みと完成への希望を知る。
黙示録1章8節
「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

黙示録22章13節
「 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

★主イエスにあって、「一日一生。」
小さ過ぎるものも、大き過ぎるものもない。
日本の地で、主イエスのご再臨の希望を力強く宣べ伝えつつ、一日、一日を誠実に歩み続けた、私たちの先達の一人・内村鑑三のことばを紹介します。
「一日は一生である。善き一生がある如くに善き一日がある。
悪しき一生がある如く悪しき一日がある。
一日を短き一生と見て之をゆるがせにしてはならない事が解る」。
 沼津港町教会の一人びとり・群れ全体のために、今祈ります。