『礼拝の生活』再考、その36

1971年2月28日
『礼拝の生活』35号

「知り給う神」 
私たちを、心の底から虚しい思いにさせる事実があります。
 百年もすれば、私たちの全部と言わずとも大部分の者にとって、自分の生きていたことすら全く忘れ去られてしまう事実です。そんな虚しさに堪えかねて、苦労して築きあげた会社を見おろす丘の上に、自分で墓をつくった方の話を先日聞きました。
 成功者と言われる方の唯一の弱味は、自分が死ぬ厳然たる事実です。
しかし、墓にしろ、何にしろ、人によって、心の底にある虚しさを満たそうとすると、根元的な矛盾に直面してしまいます。死に打勝てない人に基盤を置く限り、根底がぐらつかないはずがないは座がないのです。このぐらつき感こそ、私たちの心から消し去ることの出来ない虚しさです。
 
 このような虚しさに支配される私たちに向かい、聖書は宣言してきます。
 唯一の、生ける、真の神が、私たちを知り給うと。神が知り給うという宣言は、私たちが全く考えてもいないまなざしが、私たちにじっと向けられている事実を意味します。このまなざしに気付かされる時、私たちの心の虚しさは、恐れに変えられていきます。
 義のまなざしに答えることの出来ない自己の姿の自覚です。まなざしを逃げ続けようとする自分への絶望です。
 
 しかし、同時に、神が私たちを知り給うとの宣言は、根底からの慰めを私たちに与えます。心のぐらつきを底に徹していやす慰めのメッセージです。義の、愛のまなざしは、イエス・キリストにおいて、私たちをいやすのです。
「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。」(ヨハネ10章14節)キリストのものとして知られているいやしの宣言。

★40年後の今、死はぐらつき感の根である面ばかりでなく、キリストにあっての慰め、誤解を恐れないで言えばあたたかささえ感じています。ただキリストにあって。この恵みの実態をしかり捉えことばとして刻むこと、喜びの営みの一つです。