沖縄から、愛兄の新書届く−中嶋聡「新型うつ病」のデタラメー

中嶋聡 「新型うつ病」のデタラメ 新潮新書474

 沖縄での25年の歩みの中で主にあって最も深い交わりを頂き、現在も沖縄と本土の地理的隔たりが、交わりの障害になるどころか、沖縄で共に生活していた時とは違う側面からなお交わりが一段と深められている方々。中嶋聡兄は間違いなくその一人です。

 とにかく約20年間、中嶋兄は、首里福音教会での宮村の宣教・説教を正しく、深く、豊かに聴従し続けられたのです。ほんのたまーに居眠りしているように見えたのは、おそらく私の勘違い。たとえ本当の居眠りであったとしても、週日の日々精神科医師の激務を思えば、それは当然なこと。耳は開かれており、聖霊ご自身は、宣教者のことばをその耳から心の深く刻まれ、主日の激務の日々に実を豊かに結ばれて行く。

 主日礼拝の場だけが、私たち二人の接点ではありません。
これまた約20年間、中嶋兄は、私のそううつの主治医。
原則として2週間に一回、中嶋兄の診察室で一患者として視察を受けるのです。
 この時が、次第に私にとって他に代えられない至福の時となりました。

 主日礼拝の場が、本来の人間・私らしい一人の人間宮村と同じく一人の人間中嶋の出会いの時であるように、なかま(患者と医療従事者は仲間)クリニックの治療室は、本来の人間・私らしい一人の人間中嶋と同じく一人の人間宮村の切磋琢磨の場、感謝。

 目覚しい著作活動を展開している中嶋愛兄は、刊行予定を実現できず四苦八苦している宮村武夫著作集の賛同人の一人として、祈り支えていて下さいます。

 確かに、二人の著作活動の対象の広がりの間は、だんち・段違いです。
 しかし心からの同志です。
「ある事実をないかのように言わない。
 ないことをあるかのように言わない」
それぞれの場で、この一事に踏みとどまろうとする、不器用な、しかしカシコイ同志です。
 2010年6月、私の著作集の出版記念会で、以下の話をしました。

−牧会の本来の、深い、豊かな理解と実践を求めて−

[1]序
 牧会は、牧会者である牧師だけがするとの狭い、一面的な理解と主張が幅を利かせている現状に違和感を覚え続けてきたのです。
 これに対比して、私なりの理解と主張の要点を中嶋聡兄が、拙書『愛の業としての説教』の帯に書いた推薦文で提示して下さいました。

[2]聖書に根拠
 創世記2章15節 本来の人間
「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
参照創世記3章18,19節 現実の人間
「3:18 土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。

3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。」

マタイ11章28−30節
「11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 11章28節だけでなく、29,30節も。正しく、深く豊かに理解し実践。
28節が特定の人だけに限らず、すべての人に開かれているように、29,30節も同様。

[3]中嶋聡兄の場合
「宮村先生は首里福音教会牧師時代、私たち教会員に、『持ち場立場でのそれぞれの活動が牧会である』と言われました。みことばに堅く立ち、それぞれの現場を大切にし、現実現場に即してものを考えようとする姿勢です。
 ご自身の持ち場・沖縄を人一倍愛しつつ、曖昧な妥協を嫌い、先入観にとらわれずに社会や歴史を判断する強さをお持ちです。そんな先生の著作集に心から期待しています。」

中嶋兄は、なかまクリニック院長、宮村の主治医。また宮村の牧師であった教会の教会員であり役員、何よりも神の御前における、人間と人間の20年以上にわたる交流。

[4]集中と展開
牧師の役割の一つ、しかも重要な一つは、教会員各自が牧会できるような説教を、主日礼拝を中心に語り続け、結実を見ること。
 その営みと、著作集の刊行が絡み合えれば幸い。アーメン