『礼拝の生活』再考、その31

1971年1月17日
『礼拝の生活』30号
 
(巻頭言)「歴史の面白さ、恐ろしさ」
 

神の言葉である聖書は、歴史の書でもあるとも言えます。
旧約聖書は、万物の創造、人間の創造に始まり、出エジプトの救いの事実に根ざし、与えられた契約に従って生きるべき神の民イスラエルの歴史を記録していると見ることが出来ます。実に長い、また方面に渡る、神の民イスラエルの歴史が描かれています。
新約聖書は、私たちの主イエス・キリストの死と復活によって生み出され、聖霊の導きによって成長し続ける教会の歩みを記しています。
ですから、聖書全体は、神の民の現実的な歩みを通して啓示された神の言葉です。
 このように、古い昔の、遠い国の、イスラエルや初代教会の出来事と、今ここで生きる私たちとの生き方を、最も密接な関係で見ることを常に学んでいる私たちは、さらに歴史一般の面白さに目覚めさせられていきます。どの時代の、どの国や地方の出来事も、歴史の主なる神への信仰の故に、今、ここに生きる私たちとの関係で見るようになるのです。歴史をありのままに、きれいごととしてではなく、今、ここに生きる私たちの課題として見るのです。そうであるならば、歴史は、実に、面白いものです。

しかし、全く同時に、歴史の恐ろしさを身に感じます。イスラエルの歴史は、単に、私たちの前にあるのではなく、イスラエルの歩みの中に私たちの姿を見ます。昭和の初めの歴史の中に現在の私たちの姿を見ます。見なければ、余計恐ろしい。

★青梅で16年と沖縄で25年の歩みを重ねていく中で、「歴史の面白さ、恐ろしさ」は、ますます心の中心に迫ってきます。
 ただ単に歴史を見たり学んだりする歴史との関係だけでないのです。
小なりとは言え、歴史形成に参与する面からも、歴史と関係を持つようになっているのです。歴史を見る関係から、歴史に見られる関係です。
 
ヘブル人への手紙11章は旧約聖書の人物を興味深く描いています。最初の読み手も、現在の読み手である私たちも、歴史を見、学ぶ実践的訓練を受けます。
ところが12章1節には、
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と記しています。
 
まさに歴史に見られ、今、ここで歴史形成に預かる恵みと責任です。

 どれほど小さくとも歴史形成に参加した者として責任を問われることを覚えます。
まさに「歴史の恐ろしさ」です。

1971年からの私の歩みでは、少なくとも二つあります。
一つは、日本新約教団から日本福音キリスト教会連合への歩みに対して、合同後も本質的課題を常に考え続けるとの留保を伴ったとは言え、賛同した事実です。
私なりに考え続ける責任があります。「日本新約教団の目指したもの−その今日的意味−」を書けたらと願っています。

もう一つは、首里福音教会そして沖縄に一人の人物を紹介した責任です。
何が問題であったのかまた問題であるのか、底に徹して考えその課題に直面することなくして、琉球神学への営みも教会と国家の関係についての提唱もできないと判断します。
 1971年においてと同様、2012年今も、「歴史の面白さ、恐ろしさ」です。