今、ここで、このからだでーヨハネの手紙、第一に導かれてー

今、ここで、このからだでーヨハネの手紙、第一に導かれてー

(1)それでも手紙として 
ヨハネの手紙、第一。手紙と言えば、パウロの手紙の場合にように、誰から誰への手紙か発信人や受信人がはっきりし、定形の結びで閉じられるのが普通です。
それに比較して、ヨハネの手紙の場合は、書き出しも終わりも随分違い、手紙と思えない程です。しかしそれでも手紙と呼ばれている点を大切にしたいのです。名前は出ていませんが、書き手(ヨハネ福音書の著者と同じ、使徒ヨハネと見私は見ます)と最初にこの手紙を読んだ人々(「子どもたち」2章1節など、「愛する者たち」2章7節など)、その双方に注意を払い読み続けるなら、この書を深く、豊かに味わうため道を開くことになります。 発信人や受信人と共に、手紙がどのような事情、いかなる目的で書かれたかをも探りつつ手紙を通読すると、「反キリスト」(2章18節以下、「にせ預言者」(4章1節)と呼ばれる人々、つまり、「あなたがたを惑わそうとする人々」(2章26節)が手紙の読み手(キリスト者・教会)を揺さぶっていた事情が浮かび上がります。 惑わそうとしていた人々の実態を、群れの牧者として、ヨハネは決して見逃さないのです。たとえば目に見える兄弟を軽視したり、憎んでいる事実を。
また主イエスが、罪を別にしては、私たちとおなじこらだももって来り給た、主イエス受肉の否定する惑わす者たちの教えの危険性など。それらがいかにはじめの福音から逸脱しているかヨハネは鋭く指摘します。

(2)目に見える兄弟 
兄弟愛の実践を、ヨハネは手紙の初めから終わりまで、終始一貫して強調しています。この事実は、手紙を自分の目で読む誰でもが気が付きます。兄弟愛を主イエスの戒めとしてしっかり受け止めている事実は、ヨハネ福音書とこの手紙を堅く結ぶ絆(きずな)の大切な一つです。この兄弟愛についての言及の中でも、4章20節後半、
「目に見える兄弟を愛していない者は、目に見えない神を愛することはできません」は、特に鋭く私たちに迫ってきます。
「神がまず私たちを愛してくださった」(4章19節)、この神の愛の基盤があってはじめて、兄弟愛が成り立つことをヨハネは熟知しています。さらに神への応答は、神を愛する恵みに立つばかりでない。神がその独子を給うほどまで愛してくださっている人間・兄弟(ヨハネ3章16節)への愛と波紋のように拡がる必然を、ヨハネは確信していたのです。
ですから、ヨハネの態度ははっきりしています。「あなたがたを惑わそうとする人たち」(2章26節)が、目に見える兄弟たちを無視したり、まして憎んだりしていながらなされる、自分たちは特別に霊的な知識を持ち、目に見えない神と直接な交わりともっているなどとの主張を、ヨハネは決して受け入れないのです。目に見えない神への愛と目に見える兄弟への愛は切り離せないと、ヨハネは鋭く論敵の急所を突きます。
また同時に手紙を最初に読んだ人々、今現に読んでいる私たちに、「今、ここで、このからだで(Ⅰコリント6章20節))と、地についた歩みと進むべき方向を指し示しています。

3)イエスを信じるとは
聖霊ご自身について、ヨハネは手紙を一貫して証言しています。聖霊ご自身は、群れの一部の特定の人ではなく全体に対して働きかけてくださる。各自の全人格、全生活、全生涯に及ぶ導きを、特に聖霊ご自身の導きのもとにおける信仰と知識の美しい調和を実例に描いています
「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、─その教えは真理であって偽りではありません─また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2章27節)。 
ヨハネ福音書14-16章に見る聖霊ご自身についての主イエスの教えに堅く基づくこの強調。

しかし同時にヨハネは、警告をも与えています。一見同じく見える論敵たちの霊の人や霊的知識の主張、しかしながら両者の間に横たわる、根本的な区別が明確にあり、文字通り似て否なるものです。「霊だからといってみな信じてはいけません」(4章1節)、してはいけないことがあるのです。「それらの霊が神からのものかどうかを、ためす」(4章1節)必要があるのです。初代教会も、ともすれば理想化されるような姿ではなく、主イエスご自身についてすら異なる教えで混乱させられてしまいそうな現実の中で、的確な識別が求められていたのです。
ヨハネは、明確な基準を与えています。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」(4章2節)。主イエス・キリストが、私たちの罪を贖うため、私たちと全く同じ人間となり、私たちの身代わりとなり十字架で死に、罪ち死に打ち勝って復活なさった、この恵みの事実に堅く立つ。
反面どのようなことが言われ、なされても、「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(4章3節)とヨハネは断じています。

(4)今、ここで、このからだで
エスを信じるとは、「主イエスは、まったく私たちのようになりました。私たちが主イエスのようになるため」と、ある説教者が明言している、主イエス受肉を信じることです。聖霊ご自身の働きと導きを。あのとき、あすこで、あのからだで生き、死に、復活された主イエスを、今、ここで、このからだで信じる、この一事です。今ヨハネの手紙を読む私たちに、ヨハネは静かに語りかけてくれます。
また、この鮮明な、ヨハネの目にみえるものにいてのことばが生む波紋を覚えるのです。2000年6月沖縄での日本伝道会議。そこでの沖縄宣言において、「私たちは主にあって日本を愛するゆえに、この社会に存在する諸問題に関心を抱き、ここに神の愛が実現されることを求めています」と言い切った私たち。
10年後の新しい伝道会議に移ったからと言って、忘れ去ることなどできないのです。
「目に見える日本を愛していない者に、目に見えない神の国を愛することはできません」と迫って来ないでしょうか。戦後の教会、自分の属する群れの歴史に正直に直面し、
そこで「あることをないかのようにしない

ないことをあるかのようにしない」
小さな戦いを重ねることなくして、戦前の教会の罪を告白することなどできないと。