『礼拝の生活』再考、その23 「埼玉県北西部の諸教会」

1970年11月15日
『礼拝の生活』22号

(巻頭言)「埼玉県北西部の諸教会」 

 私たち青梅キリスト教会は、孤立した存在ではありません。各地の諸教会との交わりの中で生かされています。この事実の一つの現れは、埼玉県北西部の諸教会と私たちの関係を注意すると明らかです。
 まず秩父郡の皆野キリスト教会は、皆野町でただひとつの教会であるばかりでなく、周囲の吉田町、小鹿町を含めて、ただ一つの教会です。
そして吉田町は新井姉の郷里です。新井姉が青梅キリスト教会の交わりの中におられる事実は、皆野町、吉田町、小鹿町の働きに私たちが積極的な重荷を常に持ち続ける特権を与えられていることを意味します。皆野キリスト教会は、N牧師を中心として、十数年の苦闘の後、新しい幻を与えられて戦いを続けています。
 秩父郡には、野上キリスト福音教会もあります。雨宮牧師の出身教会です。この一事で、私たちとどれ程深い関係が存在するか、何の説明も必要としません。今、野上教会は、無牧です。しかし、数名の主にある兄弟・姉妹ががんばっています。困難な地で幼児園の働きもなさっています。目に見える面が大変であればある程、野上の地に対する主のあわれみを確信させられます。
新約時報第一号(1964年・昭和39年3月20日)に、「人口一万前後の町に、キリストの教会がどのように形成されていくかは、単に野上教会の課題ばかりでなく、日本新約教団全体の課題でもある」と留学直前の私は思いを込めて書きました。今も、私は全く同じ思いを抱いています。
 大里郡の寄居キリスト福音教会。19才の時から、留学中の四年間を別にして、この三月まで、私が奉仕してきた教会です。今、雨宮先生や私の日本クリスチャン・カッレジでの同級生・中路先生が牧会の任にあたっています。中路婦人は、青梅キリスト教会の出身です。青梅キリスト教会が寄居で、寄居キリスト福音教会が青梅で生き、働いているわけです。確かに青梅キリスト教会は、孤立した存在ではありません。
 東松山の教会で、青梅に住む田住宣教師が、月に一度宣教にあたっています。その時には、主の恵みの聖餐が守られています。
 埼玉県の北西部の諸教会に限っても、私たちは、それぞれの教会と深い結びつきを持ちつつ生きています。主にある生きた交わりは、さらに、何倍も何倍も広がりを持っています。キリストの愛と苦しみの波紋は、私たちの群を通しても確実に広がり続けています。主の豊かな力に満たされて連帯の中に生かされながら、青梅の地で与えられた使命を果し続けましょう。

★今回、埼玉県北西部の諸教会のことを改めて思い巡らす機会を与えられました。
 各教会について、さらにそこに連なる兄姉について。
例えば、テオピロ神学リンクに加わって下さったOE姉。
この20年来福生市の市会議員として着実な活躍を続けています。
 都会議員さらにはの話があっても一切耳をかさず、自分の使命は市会議員と自覚、その場に徹しています。昨年街頭で杖をつきながら選挙応援演説をしてまわった際、この点を私は強調しました。
 1967年私たちが留学から寄居に戻った時、O姉は高校生。1年間のハイデベルグ信仰の学びを通して、キリスト信仰に導かれました。
 私たちが寄居から青梅に移った後、短大の英文科を卒業、もみの木幼児園に就職。
やがて小学校教師O兄と結婚。
O兄が若くして召された後も、O 姉は市会議員として使命を果し続けて、沖縄の竹富島の方々との交流は長く、深いものがあります。
 携帯活用によるO 姉との対話と祈りは、確かに私の元気の源の一つです。