『礼拝の生活』再考、その22
1970年11月8日
『礼拝の生活』21号
(巻頭言)「ありのままに」
10月24日の読書会で、ヨブ記の初めの数章を読みました。特に、1、2章と3章以下の関係について幾つかの面から考えさせられ、有益な時を持つことが出来ました。
ヨブ記で深く心に残るのは、「ありのままに」見る一事です。「ありのままに」見るとは、1章に記しているように、財産と家族を次々に失った時、ヨブがなした告白が示している態度です。ヨブは悲報に接して、
私は裸で母の胎から出てきた。
また、裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな」、と告白しています。ヨブのこの態度こそ、すべてを「ありのままに」見る信仰の目です。あらゆる飾りを否定し、すべてを裸のままに見つめるのです。いかなる手段による酔いからもさめて、目ざめているのです。これが、すべてを「ありのままに」見る信仰の目です。
すべてをありのままに見るヨブが自己を見る時、そこには人の悲惨以外の何物も映らないのです。ヨブ記3章以下は、人の悲惨の事実をあらゆる宗教的観念から解放されて、「ありのままに」見るヨブを巡る一大ドラマが展開しています。人の悲惨の現実に圧倒されたヨブは、叫び、呻くのです。
「なぜ、私は、胎から出たとき、
死ななかったのか。
なぜ、私は、生まれでたとき、
息絶えなかったのか。」(ヨブ3:11)
この「なぜ」の前に、通俗な教えやさとしが、いかに無力であるかをヨブ記3章以下はあらわにしております。
このように、人の悲惨を私の悲惨としてありのままに見、身に受けていくヨブは、唯一の、生ける、真の神の存在と神の語りかけにも、ありのままの事実として、直面するのです。その中で、ヨブは主なる神に答えます。
「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、誰でしょう。
まことに、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分でも知りえない不思議を。」
この告白は、神の恵みの事実を、ありのままに見る事の出来ない自分を、ありのままに認める信仰の告白です。
10月24日の読書会は、10月25日、母の死に私が直面するための備えであったと深く心に刻むのです。
★母は、55歳で死去。長男の私は、30歳でした。
高校時代、私はキリスト信仰に導かれた。1956年4月日本アッセンブリー小岩教会少年部が発行した。『のぞみ』の『聖書は語る』で、以下のように記しています。
「聖書の言葉」
「一年間、聖句を母に語り続けてきた。最近母が急に、聖句を霊的に理解してくれるようになった。
完全に救われた者の見方でもって聖書の言葉な解釈している。ただ救われたという確信のみが必要だと思われる。一日も早くはっきりした確信が持てるように祈っている。
聖書は語る。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です』」(Ⅰコリント1:18)。