『聖書解釈の喜び』

★住んだことがなくても強い絆で結ばれていると意識する場所の一つは、私にとって北海道です。
 北海道を最初に意識したのは、高校時代の大学受験との関わりで、北海道大学で農業経済を専攻したいと考えていました。当時一般社会と呼ばれていた授業を担当して下さった、矢内原門下の米山四四男先生の影響です。
 ところがキリスト信仰に導かれ、日本クリスチャン・カッレジへ進んだのです。その2年生のとき、内村鑑三全集を読み続け、「教育者としての内村鑑三」(宮村武夫著作Ⅰ『愛の業としての説教』166頁以下)を書きました。内村を通して北海道との結び付きです。

 その北海道の北海道聖書学院へ惹かれるのは、自然です。ですから末弟三郎に同学院を紹介、自分が果せなかった北海道での学び、しかも聖書の学びが実現したのは、深い喜びでした。
 
 何とその北海道聖書学院から集中講義の依頼を受けたのです。そこで感謝して            


『聖書解釈の喜び』
2001年10月3日(水)〜5日(金)
北海道聖書学院、集中講義


(1)目的・目標
①聖書の主題の確認、契約関係・呼応関係
②総論的、神の恵みへの応答、Ⅰコリント15章10節。
③各論的、今、北海道聖書学院で学ぶ恵みへの応答。
やがて、与えられた地・場で聖書を読み、従い、伝える恵みへの応答する将来に備えて。備える恵み。

(2)予定・スケジュール
1時間目「聖霊、聖書、教会」、聖書解釈の前提
2時間目「聖書の成立と聖書解釈」、ヘブル1章1-3節を中心に
3時間目「聖書解釈のABC」何が、いかに、なぜ
4時間目「聖書解釈の鍵」、接読詞、関係副詞、論理語
5時間目「聖書解釈の豊かさ」、聖書神学、組織神学との関係
6時間目「聖書解釈と聖書解釈者」、聖書解釈と祈り
7時間目「聖書解釈、今、ここで」、聖書解釈の歴史と私
8時間目「聖書解釈と北海道聖書学院ー兄弟姉妹,しもべ仲間ー」
9時間眼「聖書解釈の喜び」(Ⅰ)「・・・つつ」の神学
10時間目「聖書解釈の喜び」(Ⅱ)火山岩からマグマへ

◆北海道と沖縄
◆北海道と北方圏宣教、南の南、北の北
◆二人の北の人、ピアソン宣教師とヴィセント・ジョイ宣教師

[1]「聖霊、聖書、教会」、 聖書解釈の前提
(1)聖書観と聖書解釈、両者の密接な関係
①何を解釈する場合でも、解釈者が対象をどのように考えるかにより、解釈の態度や方法が影響を受ける。
②聖書の場合も、聖書観は聖書解釈の態度や方法と密接に関係する。  
福音主義(聖書主義)が聖書観を重視しこれに固着するのは、その立場の狭さを示すのでなく、豊かな広がりを保証する。この事実を今集中講義で少しでも実証できれば幸い。

(2)聖霊,聖書,教会
 聖書観の中心は、聖霊、聖書、教会の以下三つの相互関係をどのように見るかにある。
 福音主義の立場(三つの相互関係をダイナミックに捉えると見たい)を自覚するため、無神論的な立場、自由主義な立場、ローマ・カトリッタの立場との比較が大切ながぎとなる。
聖霊と聖書(聖書は神の霊感による書)
②聖書と教会(聖書は信仰と生活の唯一の規範)
聖霊と教会(聖霊ご自身と聖書に導かれ、常に改革され続ける)。

(3)聖書観と教会観
 聖書を誤りなき神のことばであると確信し、聖霊ご自身と教会の生きた関係を重視する福音主義の道は、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」と使途信條が告白している道にほかならない。
 生ける、唯一の、真の神の聖なるみこころが提示されている聖書。この聖書を信仰と生活の唯一の規範として従う聖書的な教会こそ、聖なる教会であり、使徒(継承)的教会であり、歴史的教会ではないか。
 それゆえ聖書解釈は、歴史を貫き、全世界に広がり行く同じ一つの教会・公同の教会に属する者であるとの明確な自覚に基づきなされるべき。

◆組織神学の構造における、神論と聖書論の位置関係。
◆実例として、『ウェストミンスター信仰告白』1章。
福音主義の聖書観と聖書解釈は、聖書的エキュメニズムの豊かな道を開く。聖書に堅く立つ一見狭いようにみえる道が真の交わりの基。 

[2]「聖書の成立と聖書解釈」
 ヘブル1章1-3節を中心に聖書解釈の方法論の確立 。
(1)歴史的事実
 ヘブル人への手紙1章1、2節で、「神は,むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法でかたられましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」と、(聖書自身が)明言している。聖書(直接的に旧約聖書)は、長い期間に渡り様々な聖書記者を通し、多様な文学類型により記されて来た。
旧約聖書
 旧約聖書は、古代オリエント世界を背景に形成されたイスラエルの民、信仰共同体である彼らの宗教史を通して生い立ち成立した。
新約聖書
 新約聖書は、ヘレニズム世界を背景に形成された新しいイスラエル・教会、礼拝共同体である彼らの歩み生活を通して書き記された。
 ここに見る中心点は、全能の神(一度にすべてをなし得るお方)が、実際に取とり給うたのは、「一度にすべてではなく」の原則である事実。

(2)類似性と区別性
 以上の事実から、旧約聖書新約聖書もその歴史的背景との関係を二重の側面から見る必要がある。
①類似性
 旧新約聖書は、古代オリエント、へレニズム世界を背景にして生い立ち成立したもので、その背景とは、当然幾つかの層で類似を見る。  
②区別性
 しかし旧新約聖書は、歴史そのもの、歴史と全く同じレベルに位置するものとのみ受け止めてはならない。モーセパウロに見るように、イスラエルや教会の現実と際立つ区別性の側面を最初から持つ。

(3)福音主義の聖書観に立つ,聖書解釈の方法論の確立.
 比較によって、聖書全体の、また特定の聖書テキストの独自のメッセージを聞き取る。
 その根底には、福音主義聖書観(それこそ聖書の聖書観と判断する)の土台。
①啓示と歴史の関係.
 啓示から歴史でも、歴史から啓示でもなく、啓示と歴史とから。
②二つの事実を同時に認め、一面や一部をもって全面や全部としない。すべての根底・根源に、三位一体なる神ご自身の創造の御業。 

◆(3)については、九十歳を越えた今日も、聖書に聴く学徒として、研鑽を続けられる、生涯の恩師渡邊公平先生を通し学んだもの。

[3]「聖書解釈のABC}、何が、いかに、なぜ (1)聖書解釈と小学校の国語のクラスで学んがことをはじめ、日々人々と繰り返す対話など、今までの学びや今の生活での経験が深い結びつきを持つ。
①小学校の国語のクラスで学んだこと。
②人の話を聴く場合、例えば幼児の話を聴く場合。

(2)何が、いかに(聖書全体、各書、特定の段落)
 何が,主題,WHAT
 構造(分解)
 いかに,展開,HOW
 これは、繰り返し意識して試みることにより、次第に身につくもの。これは何も聖書解釈に限ったことではなく、一般の書物について通じること。私たちは、意識するとしないとにかかわらず実践している。例えば,一冊の本を読む場合の目次の活用。
 目次には、主題がどのように展開されているかを明示。これを手掛かりにしながら、その本の各部も全体も読まれ理解される。
 聖書解釈の場合は、いわば詳しい目次を準備し、それを手掛かりに、各部と全体を読み進める営み。この営みを図式化すれば、以下のように。
 聖書を読む→構造→構造を手掛かり→聖書を読む→修正し深められた構造→その構造を手掛かり→聖書を読む・・・
 聖書を読むことを中心に、上記の作業を反復、繰り返し、継続。
 実例 ガラテヤ人への手紙.

(3)何がいかにと構造に注意しながら、著者は、なぜこのことをこのように記述しているのか、著者の意図・神学を探る。この点については、最後の時間に詳しく。◆沖縄聖書神学校の小論文のクラスの目的。
書いた人の立場で読み、読む人の立場で書く。

[4]「聖書解釈の鍵」、接続詞、関係副詞、論理語
(1)小さな単語にも注意。私たちが聖書を読み味わって行く際、聖書辞典などに取り上げられている名詞や動詞に注意することは、勿論大切です。しかしそれと同様に、ある場合はそれ以上に、「しかし」、「それゆえ」、「なぜならば」など、一見小さく見える単語に注意する必要。

(2)このような小さい単語は、[3]で見た構造を知るために、大切な手掛かりとなる。
①場面展開の場合。
 マルコ13章1節の文頭に本来訳されるべき「そして」に注意。これにより、12章41-44節と13章1-2節の対比と結び付きがはっきりします。
②論理展開の場合.
 Ⅰヨハネ4章20節、「(なぜなら)目に見えない」の「なぜなら」に注意。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」 と「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えるない神を愛することはできません」の関係が本来そうであるように、はっきり見える。
 これらの小さいことばは、文と文の関係、論理の展開を表す鍵の役割を果たしている。

(3)小さなことばが繰り返して用いられている場合、特に注意。
 たとえば、「・・・ついて」。
 Ⅰコリント7章1節
      8章1節
      12章1節
      16章1節

(4)小さいことばの一つとして、時や日などを表す数字。
創世記25章19-26節。

[5]聖書解釈の豊かさ」、聖書神学、組織神学との関係
(1)私たちの目標、課題は。
聖書を正しく、
深く、
豊かに解釈すること。参照ヨハネ10章10節。

(2)聖句主義と聖書主義は、似て否なるもの。
①ガラテヤ人への手紙の場合
パウロの論敵の主張。聖書に書いてあるではないか割礼を受けよ。
    ↑
    ↓
パウロの主張。根源に帰って、3章6節、アブラハムが義とされたのは。聖書全体の流れの中で、3章17節、3章23節。
グノーシス主義的論敵、Ⅰコリント15章50節に書いてあるではないか、血肉は神の国を相続することはない。からだの復活はない。 
    ↑
    ↓
 エイレナイオスの駁論、聖書全体を通観。そこに見る神観、人間観、こらだの理解に立ち、Ⅰコリント15章50節の意味理解。
 まさに聖句主義と聖書主義の戦い。

(3)聖書全体というとき、啓示の歴史全体としての聖書神学。
 創造から再創造までの全体の流れ。聖書記者と聖書解釈者は、共に同じく創造から再創造に生かされている同時代人。参照新約聖書旧約聖書引用の問題、例えばパウロアブラハム引用。
 この場合、啓示の歴史・救いの歴史の一貫性。
      進展性の両面が大切。

(4)聖書全体というとき、論理的、有機的つながりとしての聖書全体を見る組織神学。
 組織神学と聖書解釈の関係として.
カルヴァンの『キリスト教綱要』
 カルヴァン自身は、『キリスト教綱要』を読んでいない。では何をカルヴァンは読んでいるのか。何よりも旧新約聖書。『綱要』第2篇の構造、流れ、内的論理。
12章からの直接のキリスト論の前に、11章旧約。
 『綱要』の役割・目標は、正しく容易に聖書を読むるため。

[6]「聖書解釈と聖書解釈者」、聖書解釈と祈り

(1)聖書解釈と聖書解釈者の関係について理解するため、聖書を記述するために用いれらた聖書記者について見ることが、この上もない参考となる。参照[2]。
 ここでは、エレミヤの場合を見たい。
エレミヤの生涯、25章1-3節。
        36章23-26節,28節,「再び」
        39章2節,頂点
   ↓
 聖書解釈者も、エレミヤの生涯に見る、「絶えず、しきり」の原則。
 聖書を反復、繰り返し、継続して読み続ける。

(2)聖霊ご自身の働きと私たちの記憶・記録。ヨハネ14章26節が的確な指針を与えれくれる。参照ヨハネ16章12、13節。マタイ10章16-20節。
 聖霊ご自身と私たちの知る・記憶・理解・認識の関係。 
 最も必要なとき、最も適切なとき、聖霊ご自身の助け・導きにより必要な事柄を思い出す経験。
 しかし聖霊ご自身が私たちを導いてくださるのは、思い出すときだけではない。最初に聞いたり読んだりするときにも、聖霊ご自身は私たちを助けていてくださっている。さらに最初のときから思い出すまでの間の全期間、私たちの意識、潜在意識に聖霊ご自身は働きかけくださっている。実に驚くべき恵み。

(3)聖書解釈者の祈り、聖霊に導かれる祈り。
 ローマ8章26、27節。エペソ6章18-20節。
 主イエスご自身が祈られた主の祈りでも(マタイ26章39、42節)、主イエス弟子に教えられた主の祈り(マタイ6章10節)でも、中心は「みこころ」のなるように。 私たちの言い分ではなく、主なる神の言い分。参照詩篇74篇22節。全き自己否定、絶対的服従

(4)ルネッサンス宗教改革、類似点と区別。
①類似点。原典に帰れとの主張と実践。テキストの文献学的研修。
②前提の違い。神観、人間観の根本的違い。
この結果、聖書テキストに対する根本的違い。
 ルネッサンスの文献解釈者は、テキストに対して人間理性を基準に価値判断。
 宗教宗教改革者は、聖書の下に立ち(under-stand).徹底的に自己否定。聴従する者として、聖書に対して価値判断しない。            

[7]「聖書解釈、今、ここで」、聖書解釈の歴史と私
(1)聖書解釈の歴史を知ることがいかに大切か。
 聖書解釈の歴史を学ぶのは、有益な情報を受けるためだけではない。聖書解釈の歴史全体を見通すことにより、今、ここで聖書を解釈しようとしている自分自身は、代々に渡り聖書を読み解釈し続けて来た教会の歴史全体の流れの中で、いかなる位置を占めているのか自分自身の歴史的位置を確認し得る。またそうする必要がある。そのことにより責任と特権を深く悟り、聖書のテキストを反復、継続的に読み続けて行く地味な聖書解釈の歩みを、希望と忍耐をもって自分なりに継続するたため、少なくない励ましを受ける。

(2)聖書に見る聖書解釈
 聖書の内部にアブラハムからダビデの約千年、ダビデからパウロまでの約千年と歴史の積み重ねがある。その中で聖書が聖書を引用し、言及して解釈しているどでも表現すべき事実がある。その中で議論の余地がないのは、新約聖書旧約聖書からの引用。
 一つの実例として、マタイ21章12-17節の場合を見たい。

(3)聖書に見る聖書解釈と教会の歴史における聖書解釈の関係。
 ルターに見る模範。「ルターは、教会教父たちの著作を、聖書の講解として理解した。一方、ルターの論敵たちは、教父たちの著作を聖書の延長にしようと思ったのである。だから伝統主義に対してルターが反対を唱えたのは、伝統それ自体でもなく、神学に伝統の厳格な使用に対してでもなく、伝統の誤用に対してである」(J.ペリカン、『ルターの聖書釈義』98頁)。「ルターは教父たちがしたこと、そのものをやってのけた(同書、147頁)。

(4)聖書、聖書という私たちの立場は、非人格的な聖書という書物の中に、神を閉じ込め、自らも閉じ込むものだと批判されるときがある。
 しかし実際は、逆ではないか。生ける神が、多くの人々の生涯を通して書き記すこと善しとした聖書。この聖書を読む者に、生ける神が人格的に語り掛け、その呼びかけに人格的に応答することを求めておられる。 この人格的交わりは、主なる神と聖書を読むものとの間、聖書記者と聖書を読む者の間ばかりでなく、各時代に聖書を読み神との人格交わり、聖書記者と人格的交わりだけでなく、聖書解釈の先達たちとの間にも交わりを与えられている。

[8]「聖書解釈と北海道聖書学院ー兄弟姉妹,しもべ仲間ー」
(1)地理的センス。私の経験、寄居キリスト福音教会(関東平野の隅と言われ)、青梅キリスト教会(東京の西の隅と言われ)の牧師の後、日本の南の端と言われル沖縄の首里福音教会の牧師に。1986年4月沖縄へ移住する際地球儀を。それ以来首里福音教会の講壇の十字架の下左に地球儀を、右下には伊江島の絵を置く。

(2)エレミヤの場合アナトテに生きる、エレミヤ32章1-15節。

(3)パウロの場合地域に根差し地域を越える教会のリアリティー、テトス3章12-15節。
 パウロの意識,「実を結ばない者にならないため」(14節)。恵みと恵みへの応答。聖書の契約構造から見る聖書の主題・課題は、いかに神の恵みに応答するか、Ⅰコリント15章10節、Ⅰテサロニケ2章1節。
 神の恵みにいかに応答するかの課題における、置かれている地域についての理解の重要性。
 地域を越え地域を越える教会の枝として、地理的センスを持ち生かされる。

(3)北海道聖書学院の一員として。
①北海道聖書学院の設立の背景を知る。
②北海道、沖縄との関係で。
 南の南、北の北を展望する視点を確立。
北海道聖書学院を視点として北方圏宣教(教会)を考える。沖縄聖書神学校を視点としてアジアの宣教(教会)を考える。両者の相互関係と協力。この中ですべての基盤として聖書解釈の役割。
③北海道史、北海道教会史の学び。その背景の中で聖書を読む喜び。さらに聖書で北海道史、北海道教会史、北海道を読む喜び。
 神学とは、対象が何であれ、その対象を聖書全体で読む営み。たとえば台風の神学、伊江島キャンプの神学など。
④北海道聖書学院とは何か。地域教会が何かと同じくそこに召し出され、そこから派遣される一群れの人々の役割は何か。
 聖書の契約構造に即して、その両面の確認。
 兄弟姉妹・・・愛・存在を中心に、各自の貴さを喜び合う関係。
 しもべはしため・・・使命・機能を中心に、各自の役割を喜び合う、黙示録22章8、9節。

[9]「聖書解釈の喜び」 (Ⅰ)、「・・・つつ」の神学 。
(1)「一度にすべてでなく」、主なる神の用いたもう原則。参照ヘブル1章1、2節。
①創造の御業において。万物の創造から再創造・新天新地(一貫性と進展性)まで。
 この全体像を何時も意識し、万物の完成を待ち望む中での営み。
②聖書の生い立ち成立においても。参照「聖書の成立と聖書解釈」 、ヘブル1章1-3節を中心に。
③聖書記者の場合(参照エレミヤ)と同様聖書解釈者の生活・生涯の場合も。一度にすべてでなく、繰り返しと継続そして継承。
④聖書解釈者の生活・生涯の在り方を示す物として、カルバヴァンが『キリスト教綱要』の序文、「ジャン・カルバヴァンから読者の皆様へ」の最後の部分で、アウグステイヌスの書簡からの下記の引用。

「わたしは進歩しつつ書き
 書きつつ進歩する人のひとりであることを告白する」
聖霊の実」とあるように、聖霊ご自身の私たち・人間に対する働きの経過とその結果を、樹木の例をもって示している意味。
 動物とは違う樹木Nお役割は、与えられた持ち場・立場から逃げ出さない。忍び耐える、聖霊が自身が注いでくださる喜びに満たされて。参照聖歌206番6節、722番4番。

(2)「・・・つつ」の神学の展開としての「発展」について。渡邊公平,『現代に生きるクリスチャン』に従って。
①個人的面に見られる発展。
②社会的面に見られる発展。
③科学における発展の思想。
④発展の完成。
◆旧約・新約を貫く一貫性、進展性。進展、進歩、成長と発展。

[10]「聖書解釈の喜び」(Ⅱ)、火山岩からマグマへ
(1)聖書解釈とは、神学の営みとは。
 何がどのようにだけでなく。なぜ、意図・神学。
火山岩を集め、それをまとめたり整理するだけではない。火山岩(聖書テキスト)の下に徹底的に服すること(understand・真の理解)によりマグマに触れる。

(2)聖霊ご自身による喜びの満たし、キリスト者・教会(本来の人間、私らしい私)。
 キリスト者・教会は、何か特別の型にはまった宗教的な存在になったことを意味しない。そうではなく、本来の人間に回復する道で、人間らしい人間、私らしい私としていかされる道。神を知り神を喜ぶ道。参照マタイ5章1-16節。
 聖霊ご自身の導きによる聖書解釈、その過程での喜び。聖書解釈の実を伝達することは、福音・喜びのおとずれの伝達。

(3)徹底的な聖書信仰、同時に徹底的な聖霊信仰。
   徹底的な聖霊信仰、同時に徹底的な聖書信仰。
①徹底的な聖書信仰とは。
主イエス受肉と聖書の存在の深い関係。聖書とは何かを考える際、主イエス受肉との関係。
②徹底的な聖霊信仰とは。

(4)聖書解釈が正しく、深く、豊かになされるとき→慎みの神学,つつしみの神学.
Ⅱテモテ1章8節
ローマ12章3節
① 高慢と絶望からの解き放ち。
② 自らの分を弁え、分を果たす道。
聖霊ご自身の導きによる希望と忍耐をもっての歩み。
聖霊ご自身に導かれ、みことばが知・情・意の奥の心に刻まれる→必ず知・情・意に影響、さらに生活・生涯に結実、教会形成と成長。これが同時に地の塩、世の光りとしての役割、文化命令の遂行。
 この使命を北海道の地で、沖縄の地で。