『礼拝の生活』再考、その5

1970年6月28号
『礼拝の生活』第4号

「『と』と『の』は違う?」
 『礼拝の生活』の第4号を出すことが許され、感謝しております。
ところで、「礼拝の生活」という名前、普通の感覚では「礼拝と生活」の方が、より自然に響いてきます。いずれにしても、「礼拝の生活」と「礼拝と生活」はよく似ており、混乱しそうです。
 実は、準備号の3ページ下の段に、ミスプリントがありました。
「そして、唯一の、生ける、真の神と万物との正しい関係を知らされた者として、神から神によってなる自分全体を神のために奉げること、これが全き奉献であり、あるべき礼拝なのです。このように、礼拝の生活は、本来全く一致するものなのです。この事実を、礼拝の生活と呼びたいのです。」という文章の中で、「礼拝の生活は、本来全く一致するものです。この事実を、礼拝の生活と呼びたいのであります。」は「礼拝と生活は、本来全く一致するものであります」が正しく、ミスプリントであることはご想像の通りで
す。
 ところが第1号の8ページには、全く逆のミスプリントがあります。そこには、「普段、時と場所を同じくして交わる機会、場の制限されている私たちが、この『礼拝と生活』を通して、さらに深い交わりを与えられたら感謝です」とあります。この文の「礼拝と生活」は、勿論、「礼拝の生活」のミスプリントです。

 このように孔版印刷で大変な苦労をはらっている東京キリスト教短大の学生下里兄が、思わず書き違えてしまう程、「礼拝の生活」と「礼拝と生活」は、確かに似たようなものです。

 では、なぜ、あえて「礼拝の生活」とこだわるのでしょうか。話しが益々ややこしくなります。しかしそれは以下の確信に基づくのです。
礼拝と生活の関係は、「礼拝と生活」という対立した二つのものを結ぶ関係ではない。
「礼拝の生活」というより根源的な一致として理解されねばならない豊かな内実であり、本来一つの事実の二つの側面であり、あくまでも一つの現実なのだとの確信です。

 先日、昼食の時間に、或る東京キリスト教短大の学生とこの話しをしていると、その学生は、「礼拝のプラトン的理解から、アリストテレス的理解への転換ですね」とびっくりするようなことを発言していました。しかしいい線を行っているなと、彼の言葉を私は内心喜んでいました。

 「と」と「の」は違う?違うとしたら、では「礼拝の生活」と主張するキリスト者の生き方はどのようなになるのか。これが私たちに与えられた課題です。

★「礼拝の生活」、この一事を中心に、私の17年間の青梅キリスト教会時代の歩みは展開しました。そこで与えられた恵みに支えられて沖縄へ向かったのです。
 勿論、それは単に私個人の経験でなく、青梅キリスト教会の礼拝共同体としての経験であり、東京キリスト教短大の学生方を通して、ささやかなりとも波紋的な広がりを与えられたと私なりに判断します。いかがでしょうか。
 
 礼拝の根源的また日常的豊かさと喜び、この夏に刊行を予定している著作2『礼拝に生きる民−申命記説教と註解−』において、それなりに提示できると期待しています。