『礼拝の生活』再考、その4

1970年6月21号
『礼拝の生活』第3号

「青梅キリスト教会―私有化との戦い―」
私たちが教会の本質である的地域性に目覚めさせられる時、1970年青梅の地で、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召された」(Ⅰコリント1:2)人々が、礼拝の生活を生き続けている事実に、深い感動を覚えるようになります。
さらに、パウロに「この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒行伝8:10)と語られた主イエスは、同じ言葉をもって私たちにも語られます。

次に「キリスト教会」とは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、教会の中心が他の何物でもなく、主イエス・キリストご自身である事実の告白です。教会の頭は、大牧者キリストである教会の最も基本的な性格を、「キリスト教会」との言葉で、私たちは表現しているのです。
教会はキリストのものです。キリストによって生かされ、キリストのために生きる存在、これでこそ、「キリスト教会」です。

ですから、教会が自らの基本的な性格を忠実に生き貫くために、最も大切な戦いは、自らが自らのものでないとの明確な意志を持ち続けるようにとの戦い、さらにそのような意識を持つ者に相応しく生き続ける戦いです。
「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と主イエスがはっきりと示すように、数多くの宗教の中から自分に適当な宗教として、キリスト教を選んだのだと目に見える外見だけにとらわれてはなりません。より根源的なキリストにおける事実を見抜く必要があります。
そうでなければ、私たちはキリストの教会を私有化してしまう危険があります。私が選んだ宗教、私が捨てることのできる宗教、私が支えている教会、私が考えた通りにならなければならない教会、それはなんであっても、「キリスト教会」では決してありません。
キリスト教会」となり続けるために、国籍、階級、教育など、他のあらゆる要素を持つ「私」による制限―私有化―との限りない戦いを生き続けなければなりません。「キリスト教会」との名称は、私有化に対する公然とした宣戦布告なのです。
それは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」(ハイデルベルグ信仰問答 問1)とのただ一つの慰めに生きる者としての戦いです。平凡に思われる「青梅キリスト教会」という名が豊かに示す事実を深く味わい、名が示すように生きたいものです。

★私物化との戦いを2004年以降沖縄を中心に粘り強くなし続ける備えを、1970年代青梅で与えられていた恵みの事実を、今にして覚えます。
 そして私なりに日ごとに読み味わう、ボンヘッファーのことばも(『主のよき力に守られて』202頁)、世慣れた言動に対して何を洞察すべきか的確な示唆を与えてくます。
 「しかし、良い羊飼いの共同体のことより、自分の職や、自分自身のことや、自分の手に入れるもののほうが重要な牧師は、雇い人である。そのような牧師は、おそらく、たいていの場合、自分の所有物だと考える「自分の教会」にとどまろうとするであろう。しかし。まさにそのことによって、彼は、『逃げ去る』ことになるのである。」