『礼拝の生活』再考、その3

1970年6月14日
礼拝の生活』第2号

「青梅キリスト教会―教会の地域性について―」

「青梅キリスト教会」という名は、その意味を気にすること自体が不自然な程ほど、私たちの日常生活の中にしっかりととけ込んでいます。
しかし少し考えてみると、この平凡な名は、大切な教会が本来あるべき事実を指し示していると気付かされます。

まず「青梅」という地名を、教会の名の一部にしていることによって、私たちが地域に堅く根ざしている存在であると告白しています。
地域に根ざしているといっても、教会の建物が青梅市にあるだけではありません。確かに教会の建物は、目に見える形で青梅に建っています。その実現のため長年の労苦を重ねて来ました。
しかし、私たちが、「青梅」キリスト教会と呼ぶ時、それは建物の所在地だけではなく、さらに深い教会の本質を意味し指し示しています。
つまり、私たちが礼拝の生活を真に生きようとする時、青梅と青梅に住まわれているすべての人と、最も深い交わりを持ちつつ生きる事実を明示しています。

このような教会が本質的に持つ地域性は、何よりも新約聖書の中にはっきり現われています。たとえば、「コリントにある神の教会」(Ⅰコリント1:2)という表現が。この「コリントにある神の教会」は、コリント市に建てられている教会堂を意味したのではなく、「わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがた」(Ⅰコリント1:2)を指しています。つまり、コリントに住むすべての人々との現実的な関係の中にあって生かされている、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召された人々のことです。それでこそ、コリント教会と呼ばれるのに相応しいのです。

私たちも、自らを青梅キリスト教会と呼ぶ時、それは、何よりも青梅にあってキリストとの生きた交わりを持つ人々、さらに、大祭司キリストによって自らも執り成し生かされながら、青梅に住む人々のために執り成し生き続ける小祭司たちを意味します。
礼拝の生活は、あくまで、地域に根ざしたものです。そして、地域に根ざしつつ、地域に限定されることなく、地域を越えるのです。

★「青梅キリスト教会―教会の地域性について―」、この課題は、過去40年求め続けられ、今、「ぶどうの木コイノニア」の正式な発足を迎えています。
あくまでも4つの教会の地域性を徹底的に大切にしながら、同時に一つの教会との側面を実践的に求め続けている、林先生をはじめとする兄姉の姿勢に接し心より敬意を払い感謝します。

私にとっても、「青梅キリスト教会―教会の地域性について―」は、「沖縄で聖書を、聖書で沖縄を」として継続されて来ました。
さらに、地域→からだヘの集中、そこからの展開へと。
今までの歩みを踏まえて、今後は市川で喜びカタツムリのリハビリ神学の営みです。