我らとともなる被爆者キリスト その3

(2)現在と将来
 またポ−ンと話しが飛んでしまいました。話を本筋に戻します。
ヨハネ福音書9章の初めのあの記事で言えば、「神のわざがこの人に現れるためです」(9章3節)、つまり現在と将来の関係です。過去を断ち切るだけではなく、過去に支配されないだけでもなく、さらに過去が変って行くだけでもない。もっともっと積極的に将来・未来への展望が開かれて行く。
そうです、現在から将来への希望をもたらす関係です。
この恵みの事実を、私は「ボタンは下から」と呼びます。洋服のボタンの一番下からかけて行けば、かけ違えることはないのです。
最後・終末から現在を見る聖書の終末観、希望と忍耐に満ちた最も現実的な生き方の提示です。

 今後さらに、Aさんが書いた『私の精神史』と対話を重ねて行きたいと私は願っています。全体で86ページ、かなりの量であることは確かです。事実、Aさん自身が、「『私の精神史』は思い切って詳しく、余計と思われることまで書いてみました」と明言しています。これを手にし、読む者に長いなーと圧倒的な印象を与えます。
しかしおっとどっこいなのです。これを書くためにAさんが消した量、それは一体どれだけのものであったことか。どれだけ消したか、どれだけ捨てたか。
ものを書くとは、自分の内側からの溢れ出、確かにそういう面も否定できません。けれども私に言わせれば、ほとんど自己否定の連続です。「このことを書いていいのかな」「こんなふうに書いていいのかな」、いちいちです。その度に己を捨て、自己否定し消すAさんの営みの結果が、ここに見る86ページです。

 ところで「将来」とAさんが直接書き出すのは、86ページの長大な証の84ページにおいてです。ですから「将来」に書かれている量は、それまでの記述の量に比較して、ごく限られたものです。しかしこの限られた部分を書く意図をもってAさんは、証を書き始め、書き続けたと私は読み取るのです。
 たとえAさんご自身が自分では気付かなかったと言われても、私は、あえてはっきり申し上げます。これは強い意図に支えられ、ものすごい圧力に抗して刻まれた文章だと。
凝縮して書かれている「将来」の部分から、二箇所を引用紹介したいのです。
最初は、比較的長めのもの、次は一行です。

A「『(ご子息のような)肢体不自由の重度脳性まひ児は、その体とぴったり同じ大きさの
牢獄に閉じ込められて生涯をすごすのです』と、あるとき人間能力開発研究所のドーマン博士が言ったのを覚えている。これによる(ご子息)の苦痛の問題には、キリストによって展望が開かれた永世において、最終的な解決をみるはずではないか。」
 
B「すべてについて、私が存在することについて、神様に感謝します。アーメン。」

 初めにBについて、一言。
 これは、「将来」の結び、つまりA4で86ページの証の最後の行です。
Aさんは、青梅キリスト教会に出席し始めた時、週報の題字「存在の喜びをあなたに」に妙に心惹かれたとのこと。そして①の文章に続いて明言なっています。
「『存在の喜び』とは、・・・それほどまで私を愛してくださる主の前に、その視線の中に生きている、より正確には、生かされている、と意識することなのだ」と。

「存在の喜び」の鍵語が、Aさんと私を結び付けています。
私が自分で自分の存在を喜ぶ、私とAさん家族が互いの存在を喜ぶ。
しかし存在を喜ぶに先立って、存在を喜ばれている恵みの事実。「私のような者の存在を喜んでくださっている神さま、そうでなければ神様は私を創造なんかしない」と私の恩師メネシェギ先生が教えてくださった、あの消息。神さまが喜んでくださっている、だからこそあなたが存在している。神さまはAさんご家族を喜んでおられなければ、Aさん家族は存在しない。この事実を教えられ、確信しています。ともに生き、生かされています。

次に①について。長くなりました。最後に力を込めて語ります。
ローマ人への手紙8章23節をお読みします。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」 

「Aご家族とともに」、AさんまたAさんの家族と何を中心にともに生きるのか。
私はこのローマ人への手紙8章23節の宣言に基づいて生かされると答えます。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、
私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
   
 私たちは、主イエスの十字架の死と復活の事実のゆえに、すでに初穂―保証、手付金―としての聖霊ご自身を受けています。
 しかし聖霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、そうです、うめくのは正常なのです。何のためにうめくのかが問題です。「うめくのが悪い」「うめかなければ善い」、そういう話ではない。
何のためにうめくのか。うめいちゃいけないことのために、またはうめく必要のないことのためにうめいてはいけない。
けれども、うめかなければならないのに、うめかないのは異常です。
では、何のために?「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」ためです。このためにうめくのは正常であり、このためにうめかないことは異常なのです。
 鼻が高いの低いの、顔がどうのこうのなんて言ってられない、そんな暇ないのです。もっと私たちはうめかなきゃいけない、もっと私たちはすばらしいものが約束されているのだから、その完成のためにうめき求めるのです。そしてその望みが確かであればあるほど、私たちはどんなことでも言い訳しない。どんなことでも言い訳しないで、主からのくびきとして負っていく。そうした清々しさ。そうした男らしさ、そうした女らしさ。これが心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望みます。これが現在と将来、希望です。
 同じことを、ピリピ人への手紙3章21節」で、もっと直接的に描いています。
 「キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの
卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

 そうです、キリストは創始者、キリストは宇宙万物の保持者です、今も。そして宇宙全体を完成に導く方なのです。そのお方が集中的に私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる、驚くべき恵みの事実です。
 被爆者キリストは、私たちの一番どん底に来たキリストが、どん底にある私たちとともにいてくださりご自身の栄光のからだと同じからだに変えてくださる。そのプロセスとして、今の歴史が進展している。ですから、一番下も下であれば、一番上も上なんですね。

〔4〕結び 
被爆者キリスト」は、私たちの将来に確信を与えてくださるばかりではなく、日々の生活での苦闘に耐えていくエネルギー、それも軽やかに耐えていくエネルギーを注いでくださいます。
 そして被爆者キリストがそちらにともにいてくださる、被爆者キリストがこちらにともにいてくださる。だから、縁もゆかりもないと思われる家族が、全然、性格も気性も能力も立場も違うそういう私たちが、なおかつ、ともに生き,生かされるのです。
Aさん家族とBさん家族がともに、何と大きく広がり、豊かに実る恵みの機会が、ここにいる私たち一人一人に与えられているのでしょうか。
長い時間、お付き合いありがとうございました。

一言お祈りをさせてください。
父なる神さま、Aご家族と本日私たちが与えられている実際的なともなる歩みは、とても短いものです。しかしこの出会いの背後に各自がなし続けてきた多様な営みの重さを覚えます。
そして「ともに」の背後とその根底に、いつも「被爆者キリストが私たちとともに」の事実、キリストの十字架の事実を覚えて感謝いたします。
この「ともに」は実に波紋のように広がって行きます。小さな存在である私たち一人一人、いろいろな制約を担っている私たちそれぞれが、「存在の喜び」の証言、顕れとして「この方とともに」、「あの家族とともに」生きる。何と多くの可能性に満ちているのでしょうか。主の私たちに対するご期待は何と深く多様な広がりを持っているのでしょうか。
 どうか私たちが「ともに」生きる責任と特権を忠実に果たし続けることが出来ますように、聖霊ご自身の豊かな導きを与え続けて下さい。主イエスの御名によって、アーメン。