我らとともなる被爆者キリスト  その②

(3)時代を超えてともに
1986年4月以来25年間に沖縄で出会った方々に祈り支えられて、2011年5月24日千葉県市川市へ移住しました。1945年3月10日東京大空襲、さらに1923年9月1日関東大震災を経験した深川生まれとして、故郷東京下町を視野に入れながらです。
1923年9月1日の大正の大震災、私は驚いています。大正大震災なんかズ−と昔の話だと思い込んでいました、小さいときから。
ところが1945年東京大空襲とその前の1923年の関東大震災までの期間、なんと22年間。つまり大正の大震災からわずか20年ほどで、東京の大空襲。私の祖母が少学生だった私によく話してくれました、大正の大震災の時にどうであったとか、3月10日の東京大空襲ではこうこうであったとか。

大正の大震災後、私たちの家族は栃木県の佐野(祖母の出身地域)に疎開しました。大正2年生まれの父親は小学生、その佐野で聖公会教会学校に通ったのです。そんなことを父は一言も私たちに話さなかった。しかしズ−とズ−と経ってから、父の従姉妹が「たいちゃん(父親の愛称)はね、教会学校でとても人気者だったの」と話してくれたのです。私が高校卒業するかしないかで牧師の道へ進もうとした時、父親は一言も反対しなかった。親戚の方々が、「たいちゃん何やっているの。跡取りがとんでもない方向に行っているのに一言も言わないなんて、なんで黙っているの」と忠告や警告しても、父親は全然それに耳をかさない。そればかりか、その後の留学を含め神学教育の学費など全面的に援助してくれました。その当時は、子供のため親がするのは当たり前だと私は平然としていました。

しかし今は違います。大正大震災に被災し佐野へ疎開にして、そこで「犬も歩けば棒に当たる」恵みの経験を父はしたのです。佐野の地で教会学校に行き、父親の心に福音の種が蒔かれ、家族にまで影響を及ぼしたのです。
1923年の大震災で、旧加賀前田藩士の曽祖父を中心に金沢から深川に移住明治維新後築き上げてきたもの全部が焼き払われてしまった。それでコンクリ−ト中心の建物を建てたわけです。しかしそれもまた約20年後の1945年に全部焼き尽くされ、同じ敷地に住んでいた私の二名の叔母と従兄弟の半数は一晩にして死にました。
 
今回の3月11日の出来事を通して、過去―1923年の大正大震災とか1945年の東京大空襲―の意味を改めて考え始めています。1923年・大正12年に大震災があった事実は確かに変わらない、しかしそれがどういう意味があったか出来事の意味の受け止め方は変わるのです。現在の様々な経験を通して過去の意味理解が深まり続けます。
生の出来事などありえない。出来事のその意味が重要です。過去の出来事は決して変わらない動かないと私たちは断定してはいけない。過去は変わってくる。どんどん変わってくると大げさに言いいたいくらい、過去の意味は深まり広まり続けます。
1923年9月1日、1945年3月10日の経験をした深川に生まれた者として、故郷東京下町を視野に入れながら沖縄から関東に戻る意義がはっきりとしてきたのです。

2010年1月18日に最初に計画された集会。それは固定した一つの出来事です。それがどういう意味があるか、それに対して私はどのように備えていくべきか。「あー深川のこと」と考えるようになりました。深川であの大正大震災から3月10日の空襲までわずかな23年の間に復興、その復興したものがもう一度焼け落ちてしまう、そこから再度の再建。
「何たる人たちだ、私たちの父母や祖父母は」、このような思いは、私の子どもの頃にも、青年時代にも感じたこともない。それが今教えられているのです。
 「ともに」は、単に今現に生きている人間との間だけではないのです。過去のいろんな人々とも「ともに」なのです。

(4)地域を越えてともに
さらに「ともに」の恵みにとり地域がとても大切です。
人間は身体を持つ存在ですから、地域と関係なく存在することは出来ません。しかもいっぺんに二つ、三つの土地・場所に同時に存在できないと普通の考えます。私も長い間そう理解していました。例えば東京の青梅にいたら、埼玉の寄居にはいられない。沖縄に行ったら、同時に青梅にはいられない、そのようにズ−と考えていました。  
ところが今はそうは思わないのです。新約聖書を読んでいて、「パウロは何教会、どこの教会の牧師と判断しますか」と問われたら何と答えますか。答えは案外難しい。同様に、「ヨハネは何教会の牧師ですか」との問いの答えも難しいです。
確かに、話しがポ−ンと飛びます、飛躍します。しかし私なりの応答として、三つの地域と立場を拠点に、喜びのカタツムリの地域を越えた歩みを目差したいのです。そしてこの歩みの実践が被爆者キリストへのささやかな応答となればと願うのです。
①栃木県宇都宮キリスト集会牧師
 私は今、宇都宮キリスト集会の牧師です、就任式もしました。この導きの中で、今回の震災を通して、改めて宇都宮の歴史を見直しているのです。
東北の玄関としての宇都宮、この宇都宮に誕生した小さな宇都宮キリスト集会。小さな集会にあって、ただ歴史的に地理的に東北の玄関であるばかりではなくて、小さな群れの祈りが東北へ向けられるようにと。

②千葉県市川市聖望キリスト教会宣教牧師
 東京下町をはじめ東京と隣接、拙宅・市川うちなーんちゅの部屋で月一度の沖縄のための祈祷会の営み。基地撤廃後の沖縄のための祈りの継続です。
東京キリスト教学園と同じ千葉県で近隣である事実から、聖書をめがねに万物を見る神学とは何かと根源的な問いも継続したいのです。

沖縄県名護市名護チャペル協力宣教師
 名護・山原から沖縄全体を見る。毎年2月、名護を中心に沖縄での宣教活動。徹底的な聖霊信仰、徹底的な聖書信仰に基づくささやかなカタツムリの歩みを、遣わされた地・いわき市に留まり続けているSご夫妻に共鳴しつつ、喜びに満たされて歩みを継続したいのです。

〔3〕『私の精神史』への応答の二つの柱 
 これからの話をしたいために、今まであれこれ話し,長い寄り道をしてきました。
Aさんの証『私の精神史』を、もっと熟読しないと充分な話が出来ない面があります。しかし「ともに」歩む道は継続ですから、今後の継続を期待しながら、今の時点での私なりの応答をしたいのです。
 まず、柱を立てる必要があります。細かいところはいろいろあり、それはそれで大切です。けれども細かい点を見ていくためにも、家に例えれば柱を二本立てたいのです。
(1)現在と過去と〈2〉現在と将来です。

(1)現在と過去
 Aさんの『私の精神史』の最初に目次が登場します。目次はとても大切。
目次において、書き手は自分の著作で何を(主題)書くか、いかに(展開)書くかを明らかにします。このような目次に提示される著作の全体と細部を注意し続けると、書き手・著者が、なぜこのこと(主題)を、このように(展開)書いたか書き手・著者自身の言い分・意図が明らかになってきます。
Aさんの証の目次で際立つのは、過去、現在、将来と全体を三分している点です。この事実に基づき、二本の柱を私は立てたのです。    
 しかもすでに申し上げたように、過去は固定されたものではない。現在が過去を変え続ける、少なくとも過去の意味を変え続けて行く、現在と過去の関係はいかにも豊かなものなのです。
 Aさんの文章も、単なる時の流れに従い書かれているものではありません。何月何日このことが、このように起きた、次に何月何日に・・・とは必ずしも書いていない。
 ではどう書いているのか。過去の一つの出来事を書くとそれを現に今どう思うかも練り合わせ織り合わせて書いているのです。
 このような現在と過去の関係を考えるとき、大切な鍵をヨハネ福音書9章の初めの主イエスと弟子たちの対話の記事に見出します。

ヨハネ福音書9章1−3節
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』
エスは答えられた。
『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』」

 あの生まれつき不自由な状態で生まれた人の現在(障害を持つ事実)を、弟子たちは、過去から判断するのです。本人か親かどちらが罪を犯した結果としての現在の障害なのかと。いずれにしても過去が現在を決定する縛りの中で現在を受け止めるのです。

 しかし主イエスは、まさにこの点を断ち切るのです。因果応報、つまり想定する原因があってその結果として現実があるとのドクマ・固定概念・死のワナから、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」と解き放って下さるのです。しかもそれだけでなく、「神のわざがこの人に現れるためです。」と、希望の未来に導いてくださっているではありませんか。

 30数年前、もみの木幼児園で最初に「水曜会(障害児の親子の会)」を開いた当時、「母源病(今、そんこと言う人はいないですが)」という厭な言葉が幅を効かせていました。母親の育て方によってこの子がこういう状態になったと決め付けるのです。過去と現在を直接的に因果応報という直線で結ぶのです。
 簡単に結び付けてはいけない、当時から私の基本姿勢でした。現在と過去の一方的な直結の主張が切られるだけではない。過去は過去として固定されるのでなく、過去の意味が豊かになり続けて行く、そのように私は理解して参りました。

 ところで皆さんの中で精神科にいかれた方おられるでしょうか。
私の限られた見聞では、精神科で治療を受けようとすると十中八、九、患者は自分の過去について根掘り葉掘り聞かれます。
 昨年5月東京に移ってから、ある立派なお医者さんの所に行きました。歯医者さんで言えば歯科衛生士の役割をしておられる若い女性が、医師の診察に先立ちいろいろ質問するのです、ついには私たちの子供たちの結婚についても問われました。そんなことが何で私の躁鬱と関係するのか。
 ですけれども、彼女は真面目なのです。「なぜ、そんなことを聞くのですか」との私の問いにもめげず、なお質問を続け、その内に「宮村さん、あなたはご自分のことをどう思いますか」と聞くのです。私は、間髪をいれず、「あなたご自身は、自分のことをどう思っているの」と聞いたのです。「えっ!!」とびっくりして。・・・
 それで、私はなお幾つかのことを言った後、「だから、そうでしょ。自分で自分のことが分からない、自分でも答えられない質問は、他の人にもしない方がいいのでは」と。
 このような非常識な会話を私がするのは、過去と現在との絶対的な結びつきに疑いを持たないイズム、自分は例外とする傾向への反発からです。

 ところがです、20年の年月私の主治医であり、キリストにある心の友・N医師は、過去の現在に対する縛りを絶対視しないのです。
過去のあのことが現在のこのことの原因だとの主張に対して、そうであるかも分からない、しかしそうでないかも分からない、確定できないとの立場をN兄は取るのです。
 私は、この立場を慎みの立場(Ⅱテモテ1章7節、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」)と積極的に受け取ります。

 一つのドグマ、一つのイズムが生きた人間を縛る。いろいろな場面で宗教がそうしているのを、私は嫌というほど見てきました。しかしそれだけではなく、医学も時にそうなっている。あたかも沖縄のユタの弊害のような役割を果たしていると言えば、あまりに極端でしょうか、過言でしょうか。
 こうした現実の中で、N医師は生育をめぐり因果応報的なことを根掘り葉掘り聞かない、どういう過去を持ってきたかを問わない。ただ彼が言っているのは、「火事がバァーと燃えていれば火を消す、そのために薬・薬物を使う」と。薬の使用についてもいろいろな考えがあることを私なりに承知しています。
 N医師の主張と実践、と同時にリハビリの実践と背後に潜む深さを身をもって体験してきました。この個人的な体験を私の世界に閉じ込めることなく、すべての人々に普遍的に通じる経験へと掘り下げるべく、聖書に基づき私なりに思索を続けています。
 一般にあまりなじみのない救済論という用語でなく、リハビリの思想と実践と対話しつつ、生ける三位一体の神による創造から再創造までの万物の歴史進展をリハビリの過程と受け止め描くリハビリ神学の提唱への備えです。