我らとともなる被爆者キリスト  その①

★いわきのS牧師夫人と電話で話した直後、
「宮村先生、先日はお電話ありがとうございます。
教団のそうかいにあわせて、つくったものです。
押し付けるようで申し訳ありません。
ご覧頂ければ幸いです」と、電話の声と同様彼女らしい
添え書きと共に、震災後報告が送られて来ました。

Aご家族とともに」
――我らとともなる被爆者キリスト――

2011年7月25日
青梅キリスト教会講演会

〔1〕序 
脳梗塞発症後、ご覧のように私は歩くのがちょっと不便なのです。しかし飛ぶのは全然問題ありません。ポ−ンと飛ぶのです、話が。
レジメを皆さまお持ちでしょうか、ですからなるべくレジメに従い、お話しさせていただきます。

 「Aご家族とともに」、これはかなり個人的響きを持つ題です。
このような題で話をするのは、私は余り経験がないことです。
「Aご家族とともに」の題での集会は、元々は2010年1月18日(月)に開催すべく計画されていました。
ではなぜこの題を選んだのか。話は簡単です。私がここに持っていますA4で86ページの文章、これはAさんが青梅キリスト教会で洗礼を受ける際、自分の経験を書いた証です。
私は1962年に牧師になって以来それなりに年数が経過しましたので、かなりの方々の洗礼に関わってきました。私が関わったどの方の証に比べても、Aさんのものは間違いなく一番長い、他の人々のものよりはるかに長い。―もちろん長ければいいというものではありませんけれども―。
青梅キリスト教会の林先生がAさんの証を沖縄の私の所に送ってくださった時、私の第一印象は、詳しく書いたなと言うより、「思い切ってしつこく書いた証だな」でした。私は自分ではあっさりした性格と自覚しています。しかし妻君代に言わせるとしつこい、かなり、いやとてもしつこいのだそうです。確かに時々しつこいものがたまらなく好きになります。そこでAさんの証を黙って見過ごすことが出来ない。是非応答したいと反応したのです。
 Aさんが書いたものに、一体全体誰が応答するだろうか。第一これを読むのが大変。しかし長大な証を黙って見過せない。そんな自問を繰り返している時に、鮫島夫人から「月曜聖書の集い」で何か話すように連絡を受けたのです。そこで何はともあれ証に応答しようと心定めたのです。応答するとなれば、Aさん個人に対するだけでなく、重い障害を持ち勇敢に生きるご子息を中心にA家族に対する応答となるのです。A家族に対する応答であれば、「ともに」を抜きに考えられない。
 
今日のお話の中で、何か皆さんに一つでもメセージをお伝えすることが出来るとすれば、それは「ともに」をめぐる考察です。
「ともに」、そうです、聖書における事実の伝達は、「神は我らとともに」が中心です。聖書の神さまは「ともに」の神さまです。聖書の神さまは私たちを創造なさられたとき、「ともに生きる者として創られた」のです。私たち人間が互いに「ともに」生きる者となるために、「神さまご自身が私たちとともに生きてくださる」、これこそ私たち人間のあり方の源泉です。
 
皆さんはいかがですか。私は江戸系いろはカルタが好きです。たとえば、「犬も歩けば棒に当たる」。この言葉を、25年前青梅から沖縄へ移住したとき、特に強く考えさせられる経験をしました。あの1986年当時でも青梅では犬を離し飼いにしてはいませんでした。
ところが車社会の沖縄で車に乗っていると、犬が外を歩いている、一匹で。その姿を見過ごせなくて、何回も同じ質問を、同席の君代にしつこくしました。
「あの犬、何か目的あって何処かへ行くのだろうか、それともただ何となく歩いているのだろうか」。何回その話をしたことか。
ところが解答があったのです。沖縄の離島で飼われていたワンちゃんが、近くの別の離島に住むマリリンという名前のワンちゃんに会う目的で、短い距離にしても海を泳いで渡って行く。犬は目的を持って歩く。それから歩いている犬を見る目が断然変わりました。
 
その後25年間沖縄滞在中、「犬も歩けば棒に当たる」は、沖縄聖書神学校の学生たちとの対話の中で、新しい展開をしました。
「犬も歩けば棒に当たる、人間歩けば恵みに当たる」。
目的を目差して生き歩む人も、ただ歩漠然と生き歩んでいるに過ぎなく見える人も、犬が棒に当たるだけでなく、私たち人間も恵みに当たるのです(参照マタイ13章44,45節)。そういう意味で偶然はありえない、偶然は決してない。だから私たちは犬のように歩いているに過ぎない、存在させられて生きているに過ぎないけれども、驚くほどの棒に当たる、恵みの棒に当たり生かされる事実を心から確信します。
 
そうです。元々集会が予定されていた2010年1月18日が延期されてから、今日2011年7月25日までの期間、私は犬のように歩いていたのです。そして恵みに、神の恵みに当たったのです。そしてAご家族もまた棒に当たったのです。犬といったら失礼ですけど、生き歩んでいると恵みの棒に当たるのです。
「ともに生きる」とは、犬棒神学。私たちは歩いていればいい、生きていればいいのだ、かならず恵みに当たる。もう生きるのが楽しい。
 
平凡な者である私は、どのような棒に当たったのか。
2009年12月18日に―かなり大きな棒でした。―それ以前20年間躁鬱だった私は、今度は脳梗塞を発症したのです。初めは脳梗塞になったとは思わなかったのですが。
その日、私はいろいろなことで疲れ横になっておりました、
君代が帰宅したので、起き上がろうとしたところ、左足がガクン。私は一晩眠れば治ると威張っていたのです。ところが母親が脳梗塞だった経験を持つ君代はすかしたり、おどかしたり、とにかく一緒に病院に行こうと。
病院で検査すると、はたして脳梗塞発症。二人にとり、家族にとって、また私を取り巻く人々にとって、「先生、病気になって良かったね」と何人かの方々が本当に心から言ってくださる事態が生じる一歩です。
 私たちのビフォ−・アフタ−。ビフォ−は脳梗塞発症前、アフタ−は脳梗塞後。ビフォ−・アフタ−と言い合うほど私たちの生涯にとり意味を持つ発症でした。
 
どん底の状態の中で、からだをめぐる思索、医療従事者の方々との出会い、医療のあり方についての考察など貴重な経験をする第一歩を踏み出したのです。
大浜第一病院では、一日3時間のリハビリの連続。日々、楽しみながらリハビリを続ける中で、私のうちに一つのことが生じたのです。からだの奥から笑いが満ちてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか緩んでしまったのではないかと君代が案ずるほどに。
そのような情況の中で、詩篇126編、その1、2節を読んでいるとき、「これだ!」と心に受けとめたのです。
「主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」

リハビリの一つは、言語治療です。舌の動きに集中しながら発声訓練。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」(詩篇119篇2節)とは文字通りの私の実感でもありました。
誤解を恐れないで言えば、脳梗塞発症後のリハビリの経験は、小さな小さなスケールではあっても、バビロン捕囚からの解き放ちであり、今落ち着いた状態であっても、解き放ちの喜びをなお生活の基底に覚えるのです

本来でしたらこの集いは2010年1月18日にもう終っていたはずなのです。私の脳梗塞発症のため本日2011年7月25日になってしまったのです。
確かに「なぜ脳梗塞になるのか」とか「リハビリにはどんな意味があるのか」とかいろいろなことが言えます。
 確かに私は基本的にはしつこく、基本的には罪深くて、基本的にはああだこうだと考えるのですけれども、同時に不思議な喜び、これも事実です。
 そうです、私にとってリハビリはもう完成しているのです。リハビリの一番の目的はもうすでに私に与えられています。この喜び、脳梗塞発症とリハビリを通して存在の喜びは、単に言葉の問題ではなく、まさに根源的な事実です。2010年1月18日には、こんな確信を持って話せなかったに違いない。
 ですから、やはり一つの棒に当たった、恵みの棒に当たったのです。

〔2]被爆者キリストへのささやかな応答 
それでは3月11日は。
3月11日の出来事は、ただ私個人にとって大きなことだけではなく、誤解を恐れずに言えば、日本全体の脳梗塞的な事柄、いやもっとはるかにそれ以上のことでした。

今、私が言えることは、福島県いわき市在住のSご夫妻とのメ−ルのやり取りについてです。Sご夫妻メ−ルに書いてありましたそのままを読ませてもらいます。
「もっか原発被爆恐怖です。いわき市の多くの人たちは東京等に向けて脱出しました。牧師たちもある人たちは脱出しています。私は悩んでいます」と率直に伝えつつ遣わされた地に留まり続けています。二人とも30年以上前、神学校で授業を担当した牧師ご夫妻。私はそのメ−ルを受け取ったときに「クウォ・ヴァディス・ドミネ」と一言書いて返事しました。後で、ずいぶん冷たいなと思いましたけど。
「クウォ・ヴァディス・ドミネ」と言えば、私の世代の方だとすぐ思い出す、1951年のアメリカ映画、クォ・ヴァディス』(Quo Vadis)ヘリンク・シェンキェヴィチの同名小説『クォ・ヴァディス』を映画化したもの。それはロ−マで大変激しい迫害下のこと。指導者であるペテロだけは逃れて次の世代に向かい道を開くようにとの懇願にペテロも承知しローマを後にして街道を進む。と光のような復活の主の姿。「クウォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ 何処へ)」とペテロが問うと、「ロ−マへ」の一声。
キリストに会い、ロ−マへ」との声を聞いた時、ペテロ自身もその顔をロ−マに向け迫害の地・殉教の地ローマへ戻り行く。

(Ⅰ)イメ−ジと聖句
その「クウォ・ヴァディス・ドミネ」の一言をSご夫妻にメ−ルしたのです。それがどういう意味で、どういう風に受け取られたかは皆様のご想像におまかせいたします
 Sご夫妻とのメールのやり取りを続けているうちに、イザヤ書の二つの箇所を思い起こしました。これも「犬が歩けば棒に当たる」でしょうか。ふと聖書の言葉が思い起こされる。それが、一番いいときに最適の聖書箇所を主が思い起こさしてくださると思い知るのです。

イザヤ63章9節
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

イザヤ53章3節
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。」
 
Sご夫妻とメ−ルのやり取りをしいる中で、私の心の中にこのイザヤ書の言葉が先に来たのか、「被爆者キリスト」のイメ−ジが先に与えられたのかちょっと判断しかねます。しかし、その二つは確かに切り離せないものなのです。
 
 「なぜ、こんなことが起こるのか」と答えの与えられない質問が出ます。「これはなぜか」と問いや疑問が湧き出ます。
そうした現実の中で、私の内面では疑問の余地がないのです、
「キリストご自身が東北の方々とともにいてくださる」、「ともなるキリスト」、インマヌエル(神われらとともに)なるお方。
 けれどもインマヌエルの方が、どのようにともにおられるのか。
被爆者としてともにおられる』、この思いが理屈を越えて、一つのイメ−ジとして私の内面に先に来たのです。そしてこのイメ−ジを支えるのが、上記のイザヤ書の聖句なのです。

(2)Ⅰペテロ2章18節以下
さらにこのイザヤ書のことばに重ねて、Ⅰペテロ2章18節以下が、「被爆者としてともにおられるキリスト」理解の道を開いてくれます。
 牧会書簡など聖書の他の箇所では、キリスト者の奴隷に向かい勧めをするとき、「キリストに対するように主人に仕えよ」と奴隷にかたります。「あなたのご主人に、あたかもキリストご自身に仕えるように、たとえ欠点だらけの主人であっても」。奴隷にとって、自分をある意味で動物のように売り買いさえする主人に「キリストであるかのように仕えていくように」と勧めるのです。
 ところがⅠペテロの手紙は違います。キリストご自身も奴隷として、奴隷の立場、そのむちゃくちゃな状態の中で生きた事実に立つのです。主人の側にキリストはいないのです。まさに奴隷の側にキリストがおり、キリストもあなたがたと同じく矛盾だらけの、本当にどうにも説明のつかない状況の中でも父なる神に従い生きてきた。あの奴隷の立場に立つリストの模範に従う。

Ⅰペテロの手紙2章21−23節 
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

Ⅰペテロ2章18節以下は、本当に大切な、意味深い箇所です。
キリストご自身は、この現実のいろいろな苦しみのはるか上にいて、すべてを司るお方、それはもちろんそうです。
しかしキリストは真の神であるばかりではなく、真の人として人間の側、人間の悲惨のただ中に、「被爆者キリスト」として存在しておられる、この事実の意味をよく考え続けなくてはいけない、私なりに。