ローマ人への手紙味読

聖書味読とは
エレミヤ15章16節
「私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、【主】よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。」

[A]『福音の力』

ロ−マ1章1−4、15−17節
[Ⅰ]序
(1)今朝から、ロ−マ人への手紙を、4回(10月31日、11月14日、11月21日、11月28日)の主日礼拝で味わって行きたいのです。
 今朝は、第1回として、ロ−マ1章Ⅰ−4節、15−17節を中心に。

(2)手紙である事実に、まず注意、注目。
 手紙の発信人である、パウロ(1章1節)。
 手紙の受信人である、ロ−マ教会(1章7節)。この両者に意を注ぎつつ、手紙全体を通読。

2]発信人パウロ 
「神の福音」を宣べ伝える使徒、キリスト・イエスの「しもべ」(1章1節)。
(1)「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、](1章3節)。
 旧約聖書に堅く立つ、正確な知識。

(2)ダマスコ途上で、復活のイエス・キリストとの出会い。
 パウロの自覚は、自分は「使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリント15章9節)。
 そのような自分に対する圧倒的な神の恵み。それこそ、復活の主イエスとの出会いであり、福音の宣教への召し出しです。ガラテヤ1章11−17節。
 その召しに応答する、パウロの生活・生涯。
 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリント15章10節。

 このような神の恵みの事実の中から、ロ−マ人への手紙は書かれたのです。
手紙のはじめに、主イエスの復活の事実がすべての基盤であると明示。
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、
大能によって公に神の御子として示された方、
私たちの主イエス・キリストです。」(1章4節)。

[3]ロ−マの問題点、二つ、参照使徒の働き17章、ギリシャアテネ
パウロは、ロ−マの人々を絶えず思い、ロ−マでも福音の宣教をなしたいと願いつつ(10−15節、特に15節)、この手紙を書き記しています。訪問できない中で手紙の役割。
 
パウロがロ−マに見た、二つの深刻な問題。
(1)創造者なる神の代わりに、造られた人間や動物を礼拝。
1章18節から32節で、パウロは、ロ−マ社会の実態を鋭く描いています。
その中心は、23節で大胆に指摘している偶像礼拝。

(2)ユダヤ人とギリシャ人の間に見るような、差別の壁。
 ユダヤ人は、ギリシャ人に対して、アブラハムの子孫として事故の立場を誇り、相手を見下げています。
 それに対して、ギリシャ人は、文化的優越感をもって、ユダヤ人を自分たちより劣った人々として差別するのです。
 この両者を隔てている差別の壁が、主イエスの十字架の贖いにより、乗り越えられるのです。その差別の壁を打ち破る福音は、まさに神の力であるとパウロは力強く宣言。
「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(1章16節)。

[4]集中と展開

(1)集中
 福音の力は、神の力。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1章18節)。

(2)展開
①さらに多様な差別(ガラテヤ3章28節)。
差別のあるところ、いずれの場所であっても福音を伝える、伝え方は、最新の注意。

②創造者のみを礼拝。
 使徒信条において明示。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」
創造者の視点から、造られたもの全て・万物を視野に。
ロ−マ11章36節
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

[B]『主イエスの復活のゆえに、この祈りの恵み』
ローマ1章1−4節、8章14−27節
 〔1〕序
(1)前回確認したように、主イエスの復活とパウロの生涯、使徒の働き9章1−9節。
ロ−マ1章1−4節、ローマ人への手紙全体の基盤。

(2)祈りと恵みー主イエスの復活と聖霊ご自身、聖霊ご自身と祈りー
 8章14−17節 A 聖霊ご自身と祈り
8章18−25節 B 祈りと被造物全体
8章26,27節  A 聖霊ご自身と祈り

[2]聖霊・御霊ご自身と祈り
(1)エペソ6章18節、「どんなときにも御霊によって祈りなさい〕、命令。

(2)8章26,27節、御霊の助け、執り成し、約束
聖書における命令と約束。命令と切り離せない、約束が与えられている。
恵みの確認, 
 ①呼吸、心臓の鼓動。
 ②食事の感謝。感謝がなければ, えさ。
   恵みを無駄にしない、Ⅰコリント15章10節,、Ⅱコリント6章1節。

(3)聖霊ご自身と祈り、8章14−17節。
 その中心は、「子」としての恵みの立場。
 ①14節、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
 ②15節後半、「子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊に   よって、『アバ、父』と呼びます。」
 ③16節、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの    霊とともに、あかししてくださいます」

[3]祈りー視点と視野―8章18−25節

(1)沖縄にあって日本、日本にあって世界、地球にあって宇宙。

(2)被造物」、万物―タ・パンター
創世記1章1節、「初めに、神が天と地を創造した。」
黙示録21章1節、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天  と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
主の祈り:祈りの基盤
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
 8章19節、「被造物も」
 8章20節、「被造物が」
 8章21節、「被造物自体も」
 8章22節、「被造物全体が」

(3)被造物への深い洞察
 ①19節、「被造物全体も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち   望んでいるのです。」
 ②20節、「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方  によるのであって、望があるからです。」
 ③21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄   光の自由の中に入れられます。」
 ④22節、「私たちは、被造物自体が今にいたるまで、ともにうめきともに   産みの苦しみをしていることを知っています。」

 23節、私たち自身も
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中   でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの   贖われることを待ち望んでいます。」

〔4〕結び
(1)「アバ、父よ」の祈り
(2)祈り、視点と視野
 からだが購われることと新天新地、切り離せない。
 新約聖書終末論の中心三点、すでに
              いまだ
              やがてかならず
(3)25節 生活・生涯の基調 「忍耐と希望」

[C]『礼拝の生活』
ローマへの手紙11章36節から12章2節
[1]序
ローマ人への手紙の3回目のです。
全体との関係
 12章1節の「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。・・・」とのパウロの神の恵みにしっかり根ざした励ましの呼びかけに意を注ぎ、ローマ人への手紙全体の構造・組み立てを大きく見通し、大きく三つに分けることができます。
 1.1章から11章まで。神の恵み(本当に豊かな!)の内容をパウロは明示しています。
礼拝の生活の基盤です。

2.12章1節から2節まで。神の恵みに応答する者として生きた献身。
狭い意味の献身ではなく、広く豊かな献身です。礼拝の生活の源泉です。
 
3.12章3節から15章13節まで。献身の現われである日常生活。礼拝の生活の家庭・教会・社会における現実。 満ちています。結びの15章13節、なんとも底に撤した励ましです。
「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
 
 以上のような手紙の全体の流れ、また直接な前後関係を考慮しながら11章36節を味わう必要があります。

[2]ローマ11章36節
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

 ローマ人への手紙9−11章までは、イスラエル人と異邦人の救いの課題に集中しています。聖書の中でも、神の救いの御業について最も深く掘り下げている箇所の一つです。
神の救いの御業、救いの歴史を熟慮しながら、パウロは、
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測りがたいことでしょう。」(11章33節)との思いに満たされているのです。その深い魂の奥底からの感動の中から、
 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(11章36節)。との讃美がほとばしり。
この短い讃美、礼拝の言葉は、聖書の中心メッセージを実にはっきりと要約し、表現しています。私でも暗記できるほどです。
 唯一の、生ける、真の神との生きた関係で、すべてのこと・万物を位置づけています。
万物は、その起源(神から発し)、現在の保持(神によって成り)、終末的目的(神に至る)を、唯一の、生ける、真の神にのみに持つとパウロは宣言しています。確信に満ちています。
 唯一の、生ける、真ののみを礼拝する一点で、全く鋭く一切妥協のないものです。
しかし同時に、万物全体を神との関係で見る、実に雄大で豊かな暖かい生き方を指し示しています。このように神礼拝のうちに、徹底的に神中心の思想と生活の基盤を見出して行くことは、重要な礼拝の営みです。
 なぜなら、唯一の、生ける、真の神を、神をあがめる目的で知る事こそ、人生の主なる目的であり、最上の幸せなのです。神をあがめ、神との関係で万物を見るのでなければ、私たちの状態は、本来の人間のあり方からずれた的外れなもの、あえて言えば野獣よりも不幸な有様にさえなるからです。
 この事実について、私たちの先達・先輩は、以下のように信仰問答で解き明かしています。
ウェストミンスター小教理問答
問1人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 
[3]からだをもって 
11章36節から12章1節への移行は、急転直下とでも言いたい程のものです。
万物の関係で、唯一の、生ける、真の神の栄光を讃美する。この神以外のなにものにも心を奪われない一点から、ローマの教会の一人一人に目を注ぎ、「兄弟たちよ」(12章1節)と呼びかけています。そうです。主イエス・キリストにあって、神を父と呼ぶ恵みにあずかっている仲間のこの人、あの人に心の目を向けています。
 そして神の恵みに感動しながら、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい」(12章1節)と心のこもった勧め、慰めの言葉を伝えています。それこそ、なすべき「霊的な礼拝」(12章1節)なのですから。
 
 ここで、「こらだ」とは、人間・私の全存在という意味です。
ですから、からだをささげる全き奉献(ほうけん)とは、全生活・全生涯が自己中心(野獣のように)の状態ではなく、自己から解き放たれ、神と人のために生きよとの呼びかけです。そして自己中心の悪霊の縄目からの解放は、すべてのことが神から、すべてのことが神によって、すべてのことが神に至る事実、恵みの事実に目覚めるとき実現するのです。
Ⅰコリント6章19節、20節、
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
さらに神とすべてのこと・万物との正しい関係を知らされた者として、神から神によってなる自分の生活全体、全生涯を神にささげる、これがあるべき本来の「霊的な礼拝」(12章1節)なのです。このように、礼拝と生活の二本立てではないのです。どこまでも礼拝に根ざす生活です。生活のただなかでの礼拝です。そうです。礼拝の生活です。礼拝と生活は、本来全く一致するものです。この事実を、礼拝の生活と呼びたいのです。
 神のために生きるとは、現実の生活にあっては、他の人のために生きること以外ではなく、その方法は、実に多様なものである事実は、12章3節以下でパウロが明らかにしています。その多様なあり方は、「心の一新によって」(12章2節)現実になって行きます。
そして「心の一新」は、神の恵みの事実に全存在を集中し自己中心から解き放たれ、「いのちにあって新しい歩みをするためです」(6章4節)。

[4]集中と展開

(1)集中
 礼拝の生活

(2)展開
 礼拝の生活
 テトス3章4−6節を声と心を合わせて味わいましょう。
「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」

[D]『「よろしく」に生きる』

ローマ16章1−16節
[1]序 
今回、4回の主日礼拝で、私たちはロ−マ人への手紙の枠組みをしっかり受け止めようと願い歩みを進めてきました。
 第1回は、1章から、主イエスの復活と聖霊ご自身。
 第2回は、8章から、聖霊ご自身と祈り。
 第3回は、11章―12章から、礼拝の生活。
今朝は、第4回目・最後で、16章1−16節に意を注いで行きます。
この箇所では、15章までにパウロが教えてきた福音を実際に生きている、生身の人々が登場します。
 1、2節と3−16節に分けて、味わいましょう。

[2]執事フィペ、助ける者・助けられる者
(1)一群の人々の最初に、フィベを推薦、紹介。
(2)港町ケンクレア教会の執事、ローマ人への手紙を携えローマへ向かった可能性。
(3)フィペ、二重の役割。助ける。助けられる。
 今まで、パウロを含め、「多くの人を助け」てきた、しかし今は助けを必要とする可能性を持つ。さらに今後は、他の人々に助けられた経験を持つ者として、なおも与えられた使命を果たしに行く姿を見ないでしょうか。
 この手紙が書かれたと考えられるコリントの町、そこにいるパウロの協力者と手紙を受け取る人々のいるローマ。その間を結ぶ、ローマ人への手紙。
その手紙を携えコリントからローマへ旅したと考えられるフイベの役割。
異郷の地にある彼女のために配慮を払うパウロの姿を見ます。みな生身の人間です。
 参照ロ−マ12章15節、
  「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

[3]3−16節、「この人たち」(4節)
(1)プリスカとアクラ、3−5節。
 ①パウロの「同労者」(3節)。
 ②「自分のいのちの危険を冒して」(4節)。
 ③「その家の教会によろしく」(5節)。
 参照使徒の働き18章2節以下(コリント)。
 どこに住んでも、家庭を中心に教会を形成のために労する夫妻の姿。
 パウロばかりでなく、「異邦人のすべての教会が感謝」(4節)。

(2)数多くの人々、6−16節
 「よろしく」と挨拶を送る人々についてパウロが語ることばを通して、ローマ教会の生き生きとした姿が伝わってきます。
 パウロが指摘していることばは、それぞれに味わい深いものがあります。
同時に全体を通して明にされている面も注意したいのです。
 ①ユダヤ人、異邦人の差別なく、主イエスにあって兄弟姉妹、ローマ1章16節。
 
②奴隷など社会的境遇の厳しさを乗り越えた、主にある交わり。
 
③家庭を通しての福音宣教と教会形成。
  それぞれの持ち場・立場において、主にある労苦を積み重ねながら戦い前進する教会の姿が、パウロの挨拶のことばを通して浮かびあがってきます。

〔4〕集中と展開

(1)集中
 「よろしく」との一言にかけるとき、心のうちに抱かれている驚くべき内容。
ローマ1章から15章で語り継ぎ、解き明かしている福音のすべてが、
小さな「よろしく」に込められています。
「よろしく」に、パウロは、福音の全体を集中し、心をこめているのです。
まさに「よろしく」に生きています。

(2)展開
 小さな挨拶のことば。
なにはできなくも、私にも許されている挨拶のことば。
そして私たちの小さな挨拶のことばが、主の恵みの御手の中で、恵みの波紋として、人の心の中で、この世の現実の中で、静かに広がって行きます。
人々の目には目立たなくとも、私たち自身でも見逃してしまう中で、私たちの挨拶のことばが福音により味付されたものとして、今週も一人一人を通し、また群れ全体を通して、静かに確実に広がり、浸透(しんとう)して行きますように。
私たちのあいさつのことば、
電話の会話、たとえば私・宮村の携帯電話、祈りの絆のため活用。
手紙もメールも、何よりも祈りが、主の御手の中で恵みの波紋と。祈りましょう。