「同時に」の恵み、主義・イズムからの解放 再掲載

「同時に」の恵み、主義・イズムからの解放 再掲載

「同時に」の恵み、主義・イズムからの解放 をめぐるメールのやり取り 
個人のブログやフェイスブックと並行して、クリスチャントゥデイにおいても掲載した、拙稿「『同時に』の恵み、主義・イズムからの解放 」に対して、心から敬愛するE先生から、以下のメールをフェイスブックを通して頂き、感謝でした。
 さっそく現時点で、以下の応答をお伝えしました。
この後の対話の展開を願いつつ、小さな一歩を踏み出します。


「主の聖名を拝します。
いつも、『はっ』と気づかされる鋭い洞察と、問題の明確化に教えられています。この度の、「イズム」についての問題提起とご提言に感謝を致します。「なるほど」と納得しています。
 それと同時に、もう少しご意見を拝聴し、確認させて頂きたいこともあり、ことばを添えることに致しました。
宮村先生の問題意識は、イズムを論ずることにではなく、イズムを安易に対象に適用すること、また、自らの立場をそれで定義して安心してしまうことにあるのではないでしょうか。
  イズムを論ずることは、複雑な事象が絡み合う、目に見えにくい流れに、ある一つの傾向を見抜いて概念化する、歴史家の大切な作業仮説だと考えています。時には単純化し、時にはデフォルメすることによって、ある傾向を浮き彫りにするものです。そのような意味で、実在するものと、必ずしも一対一で対応し得るものでもありません。実際には一つの事象に複数のイズムが混在することもあります。
問題は、その作業仮説として得られ、浮き彫りにされた傾向としてのイズムを、事象の全体であるかのように誤解したり、ラベルを貼ること、逆に、自らの在り方や立場を、あたかもそれであるかのように思い込むことで、実は他のイズムに立っていることを見逃してしまうことにあるようにも。そのような意味で、宮村先生のおっしゃられるように、より慎重でなければならないという自覚を強めて頂きました。
しかし、イズムを論ずることが悪いのではなく、それがなくては、明示し得ない事柄もあるのではないでしょうか。限界と問題点を自覚しつつ、如何に、慎重に具体的事象へと適用するかではないか。そのような印象を受けました。さらなる教えを請います。EM」

 私の即座の応答は、以下の通りです。
「Eご夫妻、おはようございます。
 まさに、私の言いたいことを私より深く広く理解して表現してくださいました。
 問題点を明らかにするために、極端に誇張する必要があり、その実例は聖書の中にも見ます。
 私なりに理解するドストエスキーの課題においても大切な課題の一つであり、大江の文学理解におけるロシアグロテスクの役割ともかかわると見ながら、小さな表現方法の営みを続けています。
 
 一度ゆっくりお会いする機会が与えられた際への備えをお伝えします。
私なりにパウロを読み続けて来た上での課題の一つは、パウロは律法に反対も、ましてや敵対もしていない。
 パウロが徹底的に反論しているのは、論敵たちに見る律法の誤用。
今、律法をイズム・主義と読み替えることのより、今後の話し合いの、新しい出発点としたいと願うのですが。
 目指すところは、聖書神学と組織神学の関係ー私は、組織神学の代わりに有機神学と呼びたいですー
 さらに釈義と解釈(学)の違いと関係の直視が、私の関心です。この点を掘り下げることのより、釈義から説教との主張と自己満足からの解き放ちがあると考えています。                 今日は、午後2時半から、お茶の水で、主日礼拝の宣教担当で、午前中は、自宅で備えているところでした。
 E先生の心のこもったメールへの応答ができ、感謝です。間もなくの主日礼拝の上に祝福が豊かにありますように。
 忍耐と希望(ローマ8:25)宮村武夫・君代」

 クリスチャントゥデイやブログが神学の場あり、神学教育の場でもある、神学校教育はできなくとも。神学教育が出来ないわけではないと負け惜しみを言ってます。爆笑頂けますか。