「沖縄で聖書を読む、聖書で沖縄を読む」、再提示

4年前
 
 
 
 

 「沖縄で聖書を読む、聖書で沖縄を読む」、再提示

 「沖縄で聖書を読む、聖書で沖縄を読む」、沖縄での25年間に意識して来たばかりでなく、今も課題は継続しています。
 2月の沖縄訪問・宣教の日々の中でも忘れることの出来ない、沖縄宣教研究所・富阪キリスト教センター第2回共同研修会。その席上で、平良修先生から公開の質問を受けました。
「宮村先生、先生は聖書で沖縄を読むとおっしゃるが,何が見えてきたのですか、どう読まれているのですか」。...
 沖縄の独立の神学的考察に直接に焦点を絞る二つの集会の2回目の冒頭でのことです。

 そして今、聖書で沖縄を読む沖縄での生活の前に、説教牧会者また神学教師として、聖書で人間を読む営みを続けてきていたと自覚するようになっているのです。
 説教者として、聖書テキストを読むと同時に、目の前にいる説教の同労者である説教の聞き手を読む使命がある、目の前のこの人を読まずして、少しばかりの学びをしたからと言って聖書を読めるはずがない。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Ⅰヨハネ4:20)。