聖書をメガネに ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』との1年

聖書をメガネに ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』との1年 再録
聖書をメガネに ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』との1年・その1 宮村武夫

待望の書、ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』が手元に届いたのは、昨年4月でした。ですから1年が経過したわけです。

この間、幾つもの面で制約に直面しながら、少し大げさに言えば、カタツムリの歩調で本書を少しずつ舐めるように、断続的に味読・身読してきました。

以下3回に分けて、私なりの本書の受け取り方を報告したいのです。

1. 著者のユルゲン・モルトマン先生、また翻訳者の蓮見和男・幸恵ご夫妻との出会い

2. モルトマン博士招聘委員会編『人類に希望はあるか 21世紀沖縄への提言』(2005年、新教出版社)と本書

3. 本書第7部「未完成の完成」と第8部「終わりの中に始まりが」

この1年間、クリスチャントゥデイの編集長としての3年目の歩みを終え、論説主幹としての歩みを始め、数人の論説委員に新たに加わっていただく願いとその人選を心に抱きながら、日々営みを続ける中からの報告です。

1. 著者のユルゲン・モルトマン先生、また翻訳者の蓮見和男・幸恵ご夫妻との出会い

モルトマン先生の高尾利数先生による日本語訳『希望の神学』を最初に読んだのは1969年、東京キリスト教短期大学で授業を担当するようになった直後、鮮明な印象を学生方に報告した記憶があります。

その後もモルトマン先生の著書の書名に興味を引かれることが何回かあり、それなりの関心を持ち続けていました。

しかし決定的転機は、何年も経過した2003年4月24〜29日、モルトマン先生が沖縄を訪問され、蓮見ご夫妻がご一緒に同行なさったときのことでした。

通訳の労で多忙な蓮見和男先生。しかし幸恵先生は、比較的ゆとりがあるご様子。ごく自然な流れで声をお掛けしたのに、間もなく話が弾み、先生が日本女子大のご卒業生(英文科と思ったのに実は家政科)であることや、ある期間「聖書」の授業を私が日本女子大で担当したことなど、話題が大いに展開したのです。

そうした中で、幸恵先生が女子大の聖書研究会やその卒業生会のことをご存じないと知りました。失礼を省みずに言えば、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」(ローマ11章4節)状況の中で、「私だけが残されました」(ローマ11章3節)と訴えるエリヤの姿を連想したのです。

そこで、日本女子大聖書研究会のOG会の存在を、あたかも自分がそのメンバーであるかのように心を熱くしてお伝えし、また新井明先生の著書『ユリノキの陰で』(2000年)と『湘南雑記―英学徒の随想』(2001年)をお貸ししたところ、幸恵先生は、滞在中のホテルでこれらに目を通してくださいました。

他方、蓮見幸恵先生について、このように優れたOGの神学者が現に活躍なさっているとM姉を通して聖書研究会のOG会にお伝えしました。

ですから幸恵先生から、「過日女子大聖研のOG会の方からお便りをいただきました」と連絡を受けたときには、とてもうれしくなりました。青函トンネル工事で、北海道側からと青森側から掘り進めたトンネルが1つになった瞬間の喜びに比すべきもの、オーバーに言えばそうです。

蓮見和男先生との出会いは、モルトマン博士招聘委員会編『人類に希望はあるか』が糸口でした。同書を沖縄キリスト教書店で目にし、拾い読みしていると、聖公会の会館での講演会「平和の建設と龍の殺害―キリスト教における神と暴力」のことを蓮見先生が記しておられる文章が目に止まりました。

講演会の質疑において、質問はすぐに同時通訳しドイツ語で伝えるが、モルトマン先生の回答を日本語に通訳することは体力的に疲れるので、モルトマン先生の回答は英語で、それを日本語に通訳する段取り。ところが英語の通訳者の都合でピンチヒッターに選ばれた宮村が「すばやい、しかも的確な通訳」(同書、95ページ)をしたと英語力について言及なさっていました。

さっそく手紙を差し上げました。あれは英語力ではない。神学力によるのだと。

モルトマン先生と同様、私なりに聖書ですべてを見、読み続ける営みを沖縄で求めてきたので、モルトマン先生の話の大意を、実際に耳で聞く前に心で受け止めており、耳で聞く際は細部に意を注いで通訳したのだと伝えたのです。

この手紙がきっかけとなり、その後、便り・資料のやりとりが始まったのです。

さらにご夫妻をご自宅に訪問した際、バックナンバーを受け取り、その後隔月に恵送していただく「ドイツ教会通信」の熟読は、至福の神学力養いの機会です。

モルトマン先生ご自身との直接の関係について言えば、通訳を担当している限られた時間に、この方は、徹底的に聖書に基づき、聖書をとしてすべてのことを認識なさっているとの深い実感が心満たしました。さらに、英語で話されているモルトマン先生と日本語に通訳している自分との、不思議な一体感、とてもリアルな感覚を覚えました。

そのひとときの経験は、沖縄で聖書を・聖書で沖縄をとの、沖縄での25年の歩みに支えられ、さらに聖書をメガネに万物を認識するとのクリスチャントゥデイでの歩みに広がる事実。この1年、本書を読み続けながら、その自覚を深めています。

モルトマン先生の言葉に深く共鳴!

「私は書くにあたって、語ることの理屈抜きの喜びと、書くことの満足を感じたことを、告白いたします」

ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』(2012年、新教出版社

◇宮村武夫
1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。クリスチャントゥデイ編集長兼論説主幹。


★聖書をメガネに ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』との1年・その2 宮村武夫
2. 『人類に希望はあるか 21世紀沖縄への提言』と本書

私が本書(『わが足を広きところに モルトマン自伝』)を読む切り口は、当然、モルトマン先生が沖縄を訪問なさった事実とその際、モルトマン先生の講演を拝聴した経験が手掛かりになります。ですから、モルトマン先生の沖縄訪問の報告書である(1)モルトマン博士招聘委員会編『人類に希望はあるか 21世紀沖縄への提言』(2005年、新教出版社)が、大切な手引きになります。

同時に、本書の中で、モルトマン先生ご自身が沖縄訪問について直接語っておられる箇所も、量的にはそれほど長い箇所ではありませんが、やはり注目を引きます。(2)第8部「終わりの中に始まりが」の第2章「新しい重要点」その2「アジアの世界で」です。

もう1つ、興味深い資料があります。(3)本書の訳者のお1人、蓮見幸恵先生が、『終りの中に、始まりが―希望の終末論』(2005年、新教出版社)の「あとがき」でお書きになっていることです。2003年4月、モルトマン先生に同行された沖縄のホテルで、ゲラ刷りが渡される、まさに現場で書かれたものです。

(1)『人類に希望はあるか 21世紀沖縄への提言』

この報告書には、モルトマン先生が沖縄を訪問するに至る、いわばドラマがモルトマン博士招聘委員会の代表である饒平名長秀(よへな・ちょうしゅう)先生によって紹介されています。(「はじめに――モルトマン博士を沖縄に迎えて」)

要請に応答して、以下に見る4本の講演と1つの説教が紹介されています。各講演の表題を見るだけで、その内容を推察できるのがうれしいです。

<講演>
自然の破壊と癒し
平和の建設と龍の殺害――キリスト教における神と暴力
先祖崇拝と復活の希望
人類に希望はあるか――グローバル化テロリズム

<説教>
目を覚まして祈りなさい――マルコ一四・三二―四二による説教

この講演が一方的な語り掛けでなく、徹底的な対話であることは、6人の方の応答の表題が明示しています。

<応答>
モルトマン先生を沖縄にお迎えするまで 長嶺浩吉
モルトマン氏を沖縄に迎えて 村椿嘉信
モルトマンとの出会い 金永秀
先祖崇拝と復活の希望 谷昌二
社会に生きているキリスト教 村山雄一
沖縄の心とモルトマンの心 蓮見和男

上記の講演と応答の中で、沖縄の状況を考えるならば、講演「先祖崇拝と復活の希望」と応答「先祖崇拝と復活の希望」は、確かに注目されます。

しかし、死の現実は、沖縄における状況だけではなく、何よりもモルトマン先生ご自身の信仰の出発が、死が力を誇る現実のただ中からのものであり(第1部「青少年時代」第3章「戦争捕虜」)、復活信仰が希望の光であることを、本書を通し、また4回の講演を通して提示されています。

(2)第8部「終わりの中に始まりが」の第2章「新しい重要点」その2「アジアの世界で」

モルトマン先生ご自身がどのような決意で2003年4月、沖縄を訪問なさったか、ご自身で記述している文章(485〜487ページ)は、本書の中でも特に私にとってとても貴重なものです。

例えば、敬愛する「金城教授は、今日八十歳で、那覇中央教会の牧師ですが、長いドライブの車内で、私に話してくれました。敗北した日本軍の兵隊は、渡嘉敷島で彼の村の家族を、『天皇の栄誉』を守るために大量自決をさせようと、洞穴に追い込んだと。彼自身も弟と一緒に自分自身の母を打ち殺すよう強制され、そしてただ偶然から生き残ったと、語ってくれました」(487ページ)。

(3)『終りの中に、始まりが―希望の終末論』の「あとがき」

「あとがき」は、文頭から「二〇〇三年四月、J・モルトマンは沖縄に来られました。那覇空港に降り立ったモルトマンは、生き生きとした姿で、『モルトマン招聘委員会』メンバーの一人ひとりと、熱い握手をかわしました」(269ページ)と生き生きと書き出されています。そして訪問全体を「沖縄の超教派の信徒、教職が一丸となって行われた五回にわたる講演、説教、シンポジュウムは、聖霊が豊かにくだるのを覚え、そのメッセージは、沖縄の人びとの心を深く捕らえました」(269ページ)と総括されています。

このモルトマン先生、また蓮見ご夫妻との出会いは、私のクリスチャントゥデイでの働きにとって、確かに思いを超えた備えであったことを、今確認するのです。

あることをないかのようにしない。そうです、死の現実がどれほどのものであっても、それを正面から直視する、静かな忍耐の戦い。それを可能にし、支える復活の希望。これがモルトマン先生の沖縄滞在中、集中的に注ぎ出されたメッセージであり、本書で著者の驚くべき記憶と記録で展開されている励ましと受け止めます。

ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』(2012年、新教出版社


聖書をメガネに ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』との1年・その3 宮村武夫

3. 本書第7部「未完成の完成」と第8部「終わりの中に始まりが」

本書は、すでに確認したように、青少年時代からの事々を驚くべき記憶と的確な記録で描く大書です。しかし、過去の回顧としての宝の山であるばかりではありません。全体が8部で構成されている中で、最後の第7部「未完成の完成」と第8部「終わりの中に始まりが」に注目したいのです。

そこでは、1980年から1994年まで、モルトマン先生が神学教授として最後の15年間をご自身の経歴の最高潮と見るか、それとも中高年の秋と受け止めるか、そうです、「私は年とったのか、それともより若くなったのか?」との課題を直視し、描いています。

第7部「未完成の完成――生の挑戦」では、

第1章 新しい三位一体的思考
第2章 ギフォード講演(1985年)エディンバラにて――創造における神
第3章 中国への私たちの長い行進(1986年)
第4章 女性または男性として神について語る エリザベトとの共同の神学
第5章 生への新しい愛

ここでは、第1章における「新しい」、同じく第5章における「新しい」が目を引きます。

さらに、第8部「終わりの中に始まりが」においても、

第1章 終わりと始まりの祝い
第2章 新しい重要点

「新しい」が「始まり」と共に大切な位置を占めています。ここであらためて気付いたのですが、第6部のタイトル「新しい三位一体的思考の十字架のしるしにおいて」にも「新しい」が刻まれています。

神学教授としての最後の15年間だけでなく、モルトマン先生ご自身の歩み、そうです、存在そのものが「新しさ」「若々しさ」「日々の成長」に満ちている印象を強く受けるのです。蓮見幸恵先生が、「二〇〇三年四月、J・モルトマンは沖縄に来られました。那覇空港に降り立ったモルトマンは、生き生きとした姿で、『モルトマン招聘委員会』メンバーの一人ひとりと、熱い握手をかわしました」(『終りの中に、始まりが―希望の終末論』269ページ)と描いている通りです。

最後から現在を見る、新約聖書の終末信仰・終末論をそのまま生きておられるのです。聖書が啓示する新天新地の希望を仰ぎ見、その基盤に立って、あらゆる現実を直視し、逃げないのです。希望と忍耐の道を歩みながら書き、書きながら生きておられる姿に深い感動を覚えつつ、この1年、本書を読ませていただきました、感謝。

この1年、本書を読みながら、あの沖縄でのモルトマン先生ご自身、また蓮見ご夫妻との出会いをあらためて感謝しつつ、もう1つの恵みの出会いを思い起こし、恵みの新しさを味わっています。

モルトマン先生が沖縄を訪問された前後、遠藤勝信先生とメールのやりとりを始め、深められていました。その中で、モルトマン先生と遠藤先生の恩師、リチャード・ボウカム先生が旧友の仲であり、遠藤先生ご自身もモルトマン先生の講義に深い印象を受けたことなどを伝えてくださいました。これは、私にとって小さくない励ましでした。

そして、2016年晩秋、心のこもった添え書きと共に、遠藤先生から送られてきた『人生を聖書と共に:リチャード・ボウカムの世界』を読みながら心熱くしたのです。例えば、「『希望の神学』とそれに続くモルトマンの二つの大作(『十字架につけられた神』と『聖霊の力における教会』)は、聖書啓示の中心的なテーマを現代の世界と関連付けるための解釈的構造に私の目を開かせてくれました」とボウカム先生は記しておられます。

あの沖縄での短い出会い、そしてこの1年間の本書の通読を通して、私の素朴な理解は、モルトマン先生が聖書をメガネにすべてのことを直視し、思索しておられる事実。それは、聖書が証しする希望にすがって、与えられた場から逃げ出さず、耐えていく。そのことを可能にするのは、聖霊ご自身の導きに他ならない。

私は、モルトマン先生のうちに徹底的な聖霊信仰と徹底的な聖書信仰に生きる先達を見、励まされ、感謝するのです。それ故に、私に与えられた場、このクリスチャントゥデイの場から逃げない、希望と忍耐の道を歩ませていただきたいと願いつつ、本書の報告を閉じたいのです。