沖縄時代医療従事者との交流の恵み、再考

沖縄時代医療従事者との交流の恵み、再考

今、からだの神学、主イエスの復活と私たちの「からだの贖われること」(ローマ8:23)の熟考を、課題の一つとして与えられています。
 この時、沖縄時代に医療従事者との交流を与えられていたのは、今日のための主から与えられていた備えと認めるようになりました。
 まずどのような交わりを与えられ、どのような祈りをなしてきたか、当時の記録を手掛かりに再考する必要があります。

[1]首里福音714 2000年9月17日◆主のぶどう園(祈りの課題)
 9月13日(水)、14日(木)聖研・祈祷会の祈りの課題 <内容割愛>

◆医療従事者のための祈り
 今朝は丸山先生が宣教を担当してくださいます。
 丸山先生のオリブ山病院でのチャプレンとしての働き、同じく喜瀬先生の若松病院でのチャプレンとしての働き、また医療従事者として日々労されている、群れに属する十数名の兄姉を覚えて、月の後半特に祈るときとしたいものです。
 武田姉は、この1箇月、スタンホード大学に単身で出張、高齢者医学に関する教育のためのトレーニングコースに参加されています。姉妹のためにも覚えて祈りましょう。

からし種の会再再開のために
 私たちの群れで、医療従事者というとき、やはり『からし種の会』のことに言及しないわけにはいきません。会と言っても、今は閉店休業、より正確には閉店中ですが。

(1)からし種の会の出発
 今ほどではありませんが、1987,88年から、小さな私たちの群れの中で、医療従事者の数が少しづつ目立つようになりました。
 こうした背景の中で、1989年3月18日、医療の仕事に従事している人々を中心にした集会を持つため準備会を計画、翌月4月より、月1回土曜日の午後に定例会を開く様になりました。
 会のプログラムは、
[1]讃美、聖書、祈り

[2]学びのとき、聖書そのもの、また聖書と医療の関係を中心に関連の著書、記事などをテキストに

[3]出席者各自が直面している課題、考え、祈りなどを中心に報告と話し合いのとき
 その後8月から、会の名称を、『からし種の会』(マタイ13章31、32節)に。
 聖書が病、死についてどのように教えているか学ぶ際、
①アダムとイブの堕落以前、神の創造における、本来の人間

②堕落後の罪の影響の中にある、現実の人間

③主イエスにある救いのもとにある、希望の人間
 その区別と関係に特に注意して聖書を学び、その学びを通し、職場で直面する課題を読む。また直面している課題を抱えながら聖書を読む。この両面を注意しました。オリブ山病院の機関誌に書いた以下のものが、当時の雰囲気を伝えていると思います。
<別記 オリブ山第6号>

(2)自然休会と再会
 からし種の会は、その後集会に新鮮さを失い、次第に出席者が少なくなり、1992年11月43回をもって、自然休会となりました。
 しかし、1994年11月30日天願悦子姉、1995年7月30日又吉幸子姉、同9月1日伊芸満君の召天。召天にいたるまでの、それぞれの病の日々に接する中で、一人の牧師・牧会者として、私自身が『からし種の会』の再開を強く願いようになりました。そして1995年9月16日に再開第1回目の集いを持ちました。この再開は、それ以前の『からし種の会』と違った、幾つかの特徴がありました。
①一つは、伊芸満君の召天を通して、イザヤ書53章の重みを骨身に教えられ、特に「悲しみの人で病を知っていた」(3節)お方・主イエスを信じ仰ぎ続けることへの招きの深い自覚。ここにこそ、医療、つまり人間の生き・死にのすべてを見る、ただの人間としての道への踏み出し。

首里福音教会の枠を超えて。再開の核となったのは、宜野湾聖書教会の広瀬牧師(理学療法士としての経験者)、与那原先生(当時オリブ山病院院長、緩和病棟に専念)、森根神学生(沖縄聖書神学校、元看護婦)などで、それに琉大医学部の学生であった大塚兄、前山兄、また東京基督教大学入学を願っていた大城千晶姉でした。
 特に広瀬先生は、会の書記としての役割を果たし、会の歩みを支えて下さいました。また与那原先生は多忙な中で、聖書に聞き、主イエスに祈る、純朴とさえ言いたいあり方で、会の基調そのものとなられていました。ですから、広瀬先生がご結婚のため本土に戻られ、与那原先生が他の病院へ移られ、大塚兄、前山兄が卒業、大城姉が入学と重なる中で、『からし種の会』は、1998年3月14日の(土)再開29回、東江直江姉前夜式(98年2月24日午後9時)、『ここに人あり、その名は東江直江』(マルコ8章22−26節)の報告を最後に、再び自然休会に陥ったのです。

(3)三度・みたび
 ピレモンとオネシモは主人と奴隷としてばかりでなく、愛する兄弟の関係、その事実を学びつつ、現に牧師自身が「愛する医者」(コロサイ3章14節)と、主治医と患者の関係と同時に、愛する兄弟同士として聖餐式にあずかる恵みを経験しているのです。『からし種の会』を三度・みたび始めるときが、そう遠くはないと感じます。お祈りください。

[2]オリブ山病院院内ニュース 『オリブ山』 第6号(編集準備委員会)1989年11月20日投稿

からし種のようなもの」 首里福音教会牧師 宮村武夫
[一] 序
 一九八六年四月、沖縄の地に家族で移り住み、首里福音教会の一員として生かされるようになって以来、幾つもの新しい経験をさせていただいています。その一つは、医療従事者の方々と、地域教会でともに生きる貴重な恵みの経験です。
 首里福音教会の主日礼拝に、多様な分野で医療に従事なさる方々が少しづつ加えられ、十数名になりました。この事実は単に偶然とは思えない。その背後にある、教会の頭なるお方のご意志を探り求めたのです(拙編著、『存在の喜び』282以下参照)。一つの応答として、月に一度第三土曜日の午後に、医療従事者を中心とした集会を持ちたいと願い備え、八九年四月から開始−継続しています。

[二] 地域教会の役割と限界
 地域教会の大切な特徴。それは何の差別もないことです。福音そのものは、AとBの差別なくみなその音を美しく響かせます。
 「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」
ガラテヤ三章28節
どんな人も、掛け替えのない尊い存在であり、その人なりの位置、持場を持つ。主なる神の恵みにより誕生し成長する地域教会が失ってはならない「しるし」です。ですから、地域教会は、この世のあらゆる持場・立場の人々の課題を知り、ともに喜びともに泣く役割を委ねられているはずです。しかし現実には、制度としての地域教会にはそれなりの限界があります。教会員各自の職場において、いかに地の塩、世の光として生かされるか、そこでの課題をお互いに担う姿勢を確立するのは、なかなか困難です。この限界を認めつつ、医療従事者の課題を、一つの地域教会なりに直視しようとする機会を感謝し喜んでいます。

[三] からし種のように
 四月から、極く限られた人数で、医療従事者の集いを続ける中で、会の名前をつけようと話題になり、そこで選ばれたのが、マタイ十三章31節、32節に基づく、「からし種の会」です。
 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。『天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります』」
マタイ十三章31、32節
神様は小さな者、小さなことを無視なさらない。この恵みに応答して、医療従事者としてのあり方を求め、どんな小さな集いでも継続することは意味があると励まされます。また「成長」とのことばも印象的です。死に至るまで、持場・立場にあって一歩一歩前進し改革され続ける生き方を求めたい。そして「空の鳥が来て」とある通り、他の人々の役に立ちたい。
この三点を教えられ、このことを心に刻むため、会の名前を選びました。

[四]結び
 沖縄の南にあって四半世紀、主に仕え、地域の人々に仕えて来た、かってのクラス・メート横内澄江宣教師。彼女のあかし、『地の果てまで』の中に、「シンガポール人医師の半数以上はクリスチャンだから」(239頁)との記述があります。
 「からし種の会」の歩みを続けながら、ささやかな祈りを重ねています。沖縄の医療従事者−単に医師や看護婦の方々だけでなく、ケース・ワーカーや事務局など実に多様な広がりに及ぶ人々−の、少なくとも一割の方々がキリスト者となるように導かれるように。そして医療従事者となるべく教育を受けている方々の一割がと。