湊晶子先生巻頭言 存在(to be)の喜び 再掲載
湊晶子先生巻頭言
存在(to be)の喜び 再掲載
宮村武夫先生との出会いから半世紀
宮村武夫先生にはじめてお会いしたのは、かれこれ四十数年位前になる。アメリカでの留学生活を終え、夫湊宏がICUで教鞭をとり、私は一歳の子供の世話をしながら男子寮のアカデミック・アドバイザー(現在はこの制度はない)として学生たちの生活及び心のケア―をしていた頃、東京キリスト教短期大学設置業務に関わってほしいと頼まれ、国立のキャンパスを訪ねた時に始まると記憶している。文部省申請には厳しい教員審査があったため、有資格者として専任教員に名を連ねることになった。
一九六五年一月学校法人東京キリスト教学園、東京キリスト教短期大学神学科(三年制)が文部大臣より認可され、翌一九六六年四月から開校された。その頃には子供が二人になり大変な時であったが、なぜか出勤するのが楽しかった。それは宮村先生と研究室がお隣であったからである。
宮村先生と私は、日本宣教のヴィジョンとパッションにおいて、一致するものがあり、授業を終えてからどちらかの研究室で熱っぽく語りあったことを懐かしく思い出す。まさに宮村先生は情熱の人であった。宮村先生と私には、いくつかの共通点があった。宮村先生はゴードン神学院で学ばれた後、ハーバード大学神学部でも学ばれたが、私もホイートン大学大学院神学部で学んだ後ハーバード大学神学部で学んだ点で、お互いに神学に立脚したリベラルアーツ教育において一致していた。半世紀前から私達は、一パーセントを越すことのできない日本宣教へのヴィジョンを熱心に語りあっていた。宮村先生も一般大学でキリスト教学の講義を持つことに使命観を持たれ、日本女子大学での講義に熱心に取り組まれた。私も母校東京女子大学でのキリスト教学を担当、晩年学長を2期8年務めた時には、先生は誰よりも感動し、喜んでくださった。私達の共通のヴィジョンは、狭い神学的論争に固執するのではなく、福音の真理を一人でも多くの同胞に伝えることである点で一致してきたのである。今回の出版計画は、先生の幅広い研究と人生経験とヴィジョンの結集であると心から喜んでいる。
「宮村武夫の『存在の喜び』」と「新渡戸稲造の “to be”」
ある日、先生がある問題を抱えて真剣に悩み苦しんでおられたことがあった。何時ものように研究室で静かに話しあった。突然大きな声で、「湊先生、存在の喜びですよ、存在の喜びですよ・・・」と興奮して語られたことがある。その時、私は「新渡戸稲造先生の“to be”ですね」と相槌を打ったが、先生のお耳に届かず、「存在の喜びですよ」と少年の
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様に繰り返された。私はおこがましいが、母親のように、「そうですね、そうですね」と相槌を打つのが精一杯であった。
新渡戸稲造は一九〇六年(明治三九)、日露戦争後の動揺期に第一高等学校の校長に就任され、当時、唯物的・破壊的思想の影響下にあった青年達に、人格主義と理想主義を熱心に説いた。新渡戸が校長に就任するに及んで、一高弁論部の主題は「to do より to be」に移ったと伝えられている.一高の歴史がもっていた業績主義の伝統や当時の時代思潮をかえりみる時、それは今日想像するほど容易なことではなかった。新渡戸は日本人に欠落していた人格(Personality), 教養(Culture),社交性(Sociality)の風潮を持ち込んだ。それまでの一高の剛健主義, 籠城主義、国家主義の校風を摩擦なく新しい方向に導くのに新渡戸は精根を傾けたのである。
新渡戸は一八七七年(明治十)札幌農学校の二期生として入学、翌年ハリス師より内村鑑三、宮部金吾らと共に受洗した。多くの著作を残しているが、一九〇四年に世に出した「性と行『人格形成(ビ―イング)か行為業績(ドウイング)か』」において、「人の行為は主として其の品性を表象するものなるが故に之を尊しとす。善人の戯は愚人のいと賢き業よりも予を教うること多し。“to be” と言ふは、”to do“ と言ふよりも遥かに重んずべきものぞ。汝、善なるべし。しからば汝の為すところ皆善なるべし」と述べている。人間はただ一人、神と対峙して立ち、その神により慰められ、強くされ、魂の平安を得て存在することがでると強調していることは今日への貴重なメッセージである。
私は、かねがね宮村先生の「存在の喜び」は、新渡戸先生の〝to be“に通ずるものと理解してきた。新渡戸が一高の校長時代に、当時学生だった矢内原忠雄の「先生の宗教と内村鑑三先生の宗教とは何か違いがありますか」との問いに、師新渡戸が次のように答えたことを、後に矢内原自身「新渡戸先生の宗教」の中で次のように書き残している。「僕のは正門でない。横の門から入ったんだ。して横の門といふは悲しみということである」と。後に矢内原は正門とは贖罪の信仰のことで、これは内村鑑三先生の信仰の中心であり、新渡戸先生の信仰にはそれに加えて寛容のこころがあったのではないかと説明した。
新渡戸の生涯の親友であった宮部金吾は、『新渡戸稲造先生追憶録』の中で「一高校長
時代は、新渡戸君の一生にとって最も記憶すべき時代の一つであった。博士はこの時に単に一高一千の学生の指導者となられたのみならず、日本全体の青年の思想的中心となられた」と述べ、新渡戸の人格教育の大きな影響を讃えた。
新渡戸は一九一三年六年半在任した一高校長を辞し、東京帝国大学法科大学教授を経て東京女子大学学長にもなられた。一高退任の夜開催された晩餐会で、「日本人に最も欠けているのはPersonality(人格)の観念ではなかろうか。Personalityのないところには
Responsibility (責任)は生じない」と述べた。感銘を受けた数百名の一高生が小日向台
の私邸まで列をなして送り、「新渡戸校長惜別歌」を合唱したと記録が残っている。
私は若き日に東京女子大学に於いて、初代学長新渡戸稲造の人格論、”to be”の教育を
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受けていたからこそ、あの研究室で宮村先生の「存在の喜び」に、心底“to be”の応答を
もってあれだけ燃えることが出来たと思う。賀川豊彦は『永遠の青年』の中で、「巨大なる世界人―イナゾウ・ニトベ!」と表現した。私は、半世紀に亘る宮村先生との交流を総括して、「偉大なる青年―タケオ・ミヤムラ!」と表現させていただきたい。これからも日本の青年たちのために、洞窟の中で神学を語るのではなく、世の真っただ中に毅然として共に立ち、傷だらけになりつつも、天に迎えて頂けるその日まで、「存在の喜びを」、「”to be” の喜び」を 、宣べ伝え続け、良き模範を残して下さると期待している。
「神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、
至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」
(コリント人への手紙 第二 二章十四節)
(東京女子大学前学長 湊 晶子)
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