パウロの手紙・ピレモンへの手紙 1章短さ・短編の魅力  その3  ピレモン8ー20節『私がそれを支払います』

パウロの手紙・ピレモンへの手紙 1章短さ・短編の魅力 
その3  ピレモン8ー20節『私がそれを支払います』

ピレモン8ー20節 『私がそれを支払います』

[1]序
(1)今回はピレモン8ー20節の箇所,特に10節,16節,そして19節に注意し,次回は、21ー25節の箇所を,「アリスタルコ,よろしくに生きる人」との主題で味わいたいと願っています.

(2)まずピレモン10,16節,そして19節について.

[2]10,16節
(1)10節
 「獄中で生んだわが子オネシモ」
 9節まで,入念な準備をしておいて,いよいよ10節でパウロは用件を明らかにしますが,この段になっても,パウロはなおも十分な注意を払っています,
 パウロは,9節に続き,私はあなたにお願いしますと繰り返し,ピレモンに対し大切な依頼があることを強調します.それは,「わが子」のことであるとパウロは切り出します.このパウロと一番密接な関係のある人物について,「(私が)獄中で生んだ」と説明し,最後に,それが「オネシモ」であるとパウロは明らかにします.
この繊細な心配りの中に,パウロのオネシモに対する深い愛と,ピレモンに対する思いやりがどれほどのものであるか,私たちは推し量ることができます.
 パウロは,この段になっても,いきなりオネシモの名前を告げることをしていないのです.その代わりに,この人物とパウロがいかに親しい関係にあるかを示しつつ,獄中でパウロがキリスト信仰へ導き,彼は今や神の恵みにより新しく生まれかわった人間であると断言し,そこで初めて,パウロはオネシモの名を明らかにしているのです.
◆「わが子」
 パウロは,時として,自分自身と一地域教会との関係を,父と子の関係で表現します( コリント4章14,15節,ガラテヤ4章19節).またテモテを,「主にあって私の愛する,忠実な子」( コリント4章17節)と呼びます.

◆「獄中で生んだ」
 オネシモは,キリスト者ピレモンの奴隷ではあったのですが,彼自身は,キリストを個人的に信じてはおらず,ピレモンの家にある教会の一員ではなかったのです.なぜであるかは直接述べられていませんが(勿論,ピレモンはそのことを熟知),ピレモンのもとから逃亡した後,どのような経過か私たちには不明ですが,オネシモはパウロにもとに来て滞在し,その間にキリスト信仰へ導かれたのです. 
 ですからパウロとオネシモの間は,単に比喩・たとえとして,父と子の関係で言い表されいるだけではないのです.
それ以上です.実に現実の間柄です.パウロは,父親のように,奴隷であるオネシモのために執り成しているだけでなく,子を生むと同じ,いやそれ以上の現実の出来事(存在と思考において)として,キリスト信仰に導き,オネシモは新しいいのちにあずかる者となったのです( コリント5章17節).

◆「オネシモ」
 オネシモ,「有用なる者・役に立つ者」(10節)を意味する,この名前は,当時奴隷の名前として珍しいものではなかったと言われます.しかしオネシモという名前は,ピレモンにとって一般的な奴隷の名前と言うだけではすまず,間違いなく,「あのオネシモ」とその良からぬ思い出を想起させたにちがいありません.パウロがキリストにあって,これほど深い愛をもって一生懸命に執り成している人物.それがこともあろうに,あのオネシモとは.ピレモンも,彼の家族も,彼の家にある教会の兄姉も,どれほどの驚愕(きょうがく)をもって,この名を聞いたことでしょうか.
 「あなたにお願いしたいのです」
 ピレモン,彼の家族,彼の家にある教会の兄姉の驚きのほどを思えば,パウロの「あなたにお願いしたいのです」との願いが,これまたどれほと真剣で,ただならぬ願いであったかは,明白です.

(2)16節
ここで直接,「奴隷」という言葉が登場.
 オネシモという個人の名前と存在がどんなに重みを持つか,私たちは十分味わって来ました.そのような重みを持つ,多数の個人の集合,また彼らを堅く縛りつける「奴隷制度」との関係でも,「奴隷」といとう言葉,「どれい」という響きは,無比の実態を示すものとして,私たちに迫って来ます.
 16節は,手紙という文章様式上からも,またパウロの信仰・思考展開の上からも,密度の濃い味わい深い文章です.
 「もはや奴隷としてではなく,奴隷以上の者,すなわち愛する兄弟としてです.」
 ピレモンとオネシモの関係.かっての関係と今のそれとの鋭い対比.この事実を,パウロは思いを尽くし,知恵を尽くし,何よりも真実をもって書き進めます.
◆「もはや奴隷としてでなく」.
 ここで,初めて「奴隷」という単語が登場します.私たちは,パウロが「オネシモ」ということばを,9,10節に至って,「むしろ愛によって,あなたにお願いしたいと思います.年老いて,今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが,獄中で生んだオネシモのことを,あなたにお願いしたいのです.」と,どれほどの深い配慮をもって,書いているか,書き刻んでいるかを見て来ました.それに勝るとも劣らない,重い事実に耐える熟慮(じゅくりょ)と決意をもって,今,「奴隷」と言う言葉を口に出しているのです.それは,オネシモの存在,生活と生涯を押さえ付けている事実.ローマ社会を根底で特徴づけている制度に,パウロは直面し,対決しているのです.
 しかも,その重いことば・事実を,「もはや・・・としてでなく」と,主イエスにある恵みの事実のゆえに,パウロはこれに打ち勝ち,乗り越えて行く.そう勝利を明言するのです.
 「奴隷以上の者,すなわち,愛する兄弟として」.

◆「奴隷以上の者」
 「奴隷」でなく,「奴隷以上の者」・「奴隷を越えた者」・「奴隷に勝る者」とパウロは鋭い対比を示します.「もはや・・・ではなく」と,今まで,いや今も絶対的な事実である「奴隷」,奴隷制度を,パウロはそれ以上のものを示し,否定しているのです.

◆「愛する兄弟として」
 しかもパウロは,否定しているだけではない.ただ「奴隷以上の者」と言っているだけはない.「愛する兄弟」と,驚くべき,主イエスにある,新し関係,福音の内実を提示するのです.そうです.オネシモにおいて,「だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です.古いものは過ぎ去って,すべてが新しくなりました.」( コリント5章17節)が,まさに現実になっているのです.
 「特に私にとってそうですが,あなたにとってなおさらのこと」

◆「特に私にとってそうですが」
 「愛する兄弟」,主イエスにある恵みの事実を一般的なこととしてパウロは語ってはいないのです.(誰にとってよりも)「特に私にとって」と強調して.オネシモとパウロの関係が,主イエス・キリストにあって,「愛する兄弟」としてのそれであると実際的な生きた実例を通し,パウロは主イエスの恵みを提示しているです.
 「特に」と訳されていることばは,通常の最上級(私との間が一番だ)ではなく,絶対用法と言われる表現で,「どんなにかそれ以上」とでも訳すしかない(参照,前田訳,「まったくわたしにとってもそのとおりですが」,永井訳,「=殊(こと)に我にとりて=として」),昂揚(こうよう)・高まり強くなる,パウロの心の思いから滲み出る言い回しです.

◆「あなたにとってなおさらのこと」
 オネシモとパウロ自身との関係に根差しながら,パウロはピレモンとオネシモの関係へと進みます.しかもその進み方が尋常(じんじょう)ではありません.パウロは,主イエスにある,パウロとオネシモの関係を,「誰にとってよりも,まず第一私にとって」と比較級以上の最上級とも別の絶対用法を用い言い表そうとしている事実を見ましたが,ここではさらに一歩踏み込んで,「その私よりもさらにあなたにとっては」と,比較を越えた絶対,それを越えると,パウロは一見理屈にはあわないような言い方で,オネシモとピレモンの関係を強調しています.

◆「肉においても」
 ピレモンとアピヤの家庭を中心とした日常生活の実践においても.◆「主にあっても」
 主イエスのからだである,ピレモンの家に教会の一員・キリスト者としても,主人と奴隷の壁が乗り越えられているから,ピレモンとオネシモは,共に聖餐式にあずかることができるのです.また共に聖餐式にあずかることを通して,この恵みの事実をしっかり確認することが許されているのです.

[3]19節
ピレモンとオネシモの間に,パウロはさらに具体的な和解の成立を保証します.それは,パウロがオネシモに代わり,ピレモンに支払いをなすというのです.パウロの力強い宣言を見ます.このパウロの姿は,私たちに私たちの身代わりになり,死の代価を支払ってくださる,主イエスの姿を明示してくれます.

[4]結び
Ⅰコリント6章20節,ローマ5章8節を味読.