忍耐と希望(ローマ8:25)の原点への旅 その6−9月5日(木)から9月9日(月)ー

忍耐と希望(ローマ8:25)の原点への旅 その6−9月5日(木)から9月9日(月)ー

★1963年8月12日、ニューイングランドのGordon Divinity School・ゴードン神学院へ向け横浜を出航。
 2週間の船旅とニューイングランドに到着直後、ゴードンでの生活の日々の一口日記メモ。
 2018年6月下旬の日々、今、クリスチャントゥデイを中心に与えられている忍耐と希望(ローマ8:25)の旅を一歩深め、一段の進展に備えるため、半世紀以上前忍耐と希望(ローマ8:25)の原点への旅、その一口日記がそれなりに用いられるよう願う。

★9月5日(木)
 午前中は、一人でFrankの室で本を読む。
静かなものである。東京の比較して、ボストンの市内を別にすれば、この辺は実に静かである。土地に余裕があるためか?
 夕方から、ボストンのImmanuel Baptist Churchの祈り会に出席する。無牧の教会にしては、統一のとれた教会である。証しをする。今後出来るだけ、証しをしないようにするべきではなかろうか。
 夜10時過ぎにBeverlyの駅に着く。自動車に依然する交通が極度に発達してしまっているこの地にあっては、夜一人でとぼとぼ歩いている日本人の姿は異様に感じられるらしい。

★9月6日(金)
 一人でいる時に、やはり肉体的な欲望を激しく感じる。実際に遠く離れているという理由だけで、精神的な距離を感ずる事はなくとも、人間は精神的存在であるばかりでなく、肉体的存在でもある。故に、こうした激しい衝動は否定しきれない。寮に来て、Trunkの着いた事を確かめる。その帰り道に、Frankが働いている上流階級の家に寄る。富の蓄積は、日本の社会状況からは、予想出来ない程である。
 しかし、こうした富の蓄積とアメリカ国内、又諸後進国の貧困との関係はどうなっているのであろうか?
 個人的に善良な人間であるという事によって、その人の社会的位置にともなう必然的な悪、許されて然るべきなのであろうか?自分にはどうしてもそう思われない。自分の現在目標と準備している牧師としての立場は、単に個人的事柄に対する神よりのMessageを伝えるばかりでなく、原理的な方向については、社会組織についても、常にMessageを伝える続ける者でなければならぬと思う。
 この事を実現するのは、いかに困難な事であろうか?希望と忍耐をもって、勝利を目ざして進むしか道はない。

★9月7日(土)
 午前中はFrank & Kenの引越しの手伝いをする。Kenの借りた室は、静かだし、学校に近いし、又それ程高くもないし、学校の寮より理想的に思われる。午後学校に寄ると佐藤君が着いている。元気との事。自分の中に、彼が出来たら夜泊りにくるように云われた時、不純なものがあった。もし、自分が来ても、佐藤君は、他のところにいて、自分の好意が無にされるのではないかと恐れた。人に好意を持ち続けつつ行動し続ける事の、いかに難しい事であろうか?
 Lakeでの送別会に参加する。Jeans先生はやはりアメリカ人だ。その事自体はどうする事も出来ない事実である。英語が自由になって、本質的と思われる事柄について彼等と存分に語り合ってみたい。結局Robertson氏の夫妻のところに泊る。彼等の息子夫妻に会う。

★9月8日(日)
 North Reading教会の礼拝に出席する。福音自体より、福音に対する態度について強調されているような気がする。教会員の人々がタオル、シーツその他を賜物としてくれる。
 昼食をHebert家族に招待される。Joan、Steve Paulなどとより以上に親しくなる。平凡ながら、幸福そうな家庭である。Park Street Churchの夕礼拝に出席する。オッキンガー牧師の説教を聞く。集会後に握手した時、彼の目の光りに強く動かされた。いかに語るかより、何を語るか。何を語るかより、誰が語るかに説教はかかっている。彼のような牧師に接する機会を与えられている事を感謝する。
 10時過ぎに寮に来る。佐藤君は教授の家に泊りに行ったとの事。やはりと思うと同時に、自分の中にある不純なものの結果がいかに現実に現われるかを知らされるかを教えられる。

★9月9日(月)
 朝食は食べない。10時頃佐藤君が帰ってくる。彼の室は、5人部屋。Changeする事が不可能であると知る。Trunkの荷物を整理する。これから数ヶ月、いや恐らくこれから一年間、この部屋で凡ての事がなされていくかと思うと、一応の整理にも気を使う。
いや 決して上等の部屋とは云えないが、自分なりの思索の場所としては、充分満足するべき。一日中整理に忙しい中で、君代からの手紙はやはり慰めである。自己を与える事が愛すると云う事でなかろうか。愛するとは、自己のすべてを対象となる人間に委ねきり事。それ故、自分達の間に於いて、彼女の能力に対する不安から、凡てを打ちあけていかないとしたら、これは愛するものの交わりにおける自然の姿ではないはずだ。