「沖縄時代の一つの出会い」
「沖縄時代の一つの出会い」
山川勝浩兄との出会いは、そのためだけでも沖縄に移住した甲斐があると極言したくなるほどの経験です。
首里福音教会で続いた二つの葬儀のいずれをも担当した葬儀社に、若き日の山川兄は勤めていたのです。連続したキリスト教の葬儀の、他の葬儀との違いに心ひかれた山川兄。時間を正確に守る、若い従業員の忠実な姿が、私にとって印象的でした。特に二番目の葬儀の場合は、特別な状況でした。自死した現場から、遺体を警察の特別な場に運ぶ役割を担った山川兄。初めてそのような場で、泣き崩れる母親と警察官方の前で祈る私。何か同志の間柄でした。
二つの連続した葬儀が切っ掛けとなって、山川兄は、求道を始めたのです。時間の不規則な仕事のため、手紙や文書を通して、主にある交流が続きました。やがてキリスト信仰の告白と共に、それまでの葬儀社を退社、キリスト教葬儀社を山川兄は立ち上げる英断をなしたのです。それは、私にとっても大きな出来事で、沖縄の社会での葬儀の意味を原理的にも現実的にも思索し続ける機会ともなりました。
絶えざる忍耐と心のこもった仕事で、葬儀社やまとは、沖縄の諸教会の間で信頼を受け、そのような中で、県立芸大出身のピアニスト元子姉と山川兄は結婚に導かれたのです。
新しい牧会者を首里福音教会が迎える過程で、協力牧師となった私の生活の一部をやまとが負担する決断をなされる中で、私はやまとのチャプレンとなったのです。
その後、半生を注いだ組織としての教会を離れる修羅場を私が通過する過程で、私たち二人の絆は、さらに固くされました。
心血を注いだやまとを、成長期にある子供たちとの時間を確保するために手放した山川兄。脳梗塞の発症が一つの引き金となり、終の棲家と夫婦で思い定めていた沖縄を離れることになった私。私たちの恵みの絆は、家族も加わりさらに堅く。
首里福音教会の講壇からみことばを語ることができない状況は、今年も続いています。しかし苦悩と喜びは両立します。苦悩が解決さなくとも、喜びは注がれます。同時に喜びがあっても、苦悩は続きます、ハレルヤ。
最初の出会いから何年も経過して知りました。山川兄は、小学校上級生のとき、ビリー・グラハム大会に参加、そこで受け取った新約聖書を、その後一人で読んでいた由。