『沖縄でヨハネの黙示録を読む恵み,ヨハネの黙示録で沖縄を読む喜び』

98年信州夏期宣教講座レジメ
『沖縄でヨハネの黙示録を読む恵み,ヨハネの黙示録で沖縄を読む喜び』
1998年8月31日(月)
この後、かなり重い鬱状態になり、結局最数的な報告書には執筆出来ずじまい。
 しかしレジメを詳しものにしたので、沖縄時代またその後クリスチャントゥデイでし展開している、「聖書をメガネに」の実践と方法論の骨格を明示できたと判断。

[一]序
(1)今回の主題の意図
(2) 聖霊ご自身,聖書,教会の生きた関係(啓示と歴史)
    聖書観
    聖書解釈学
(3)「聖書を」と「聖書で」
    地理的センス
    地域教会の一員・牧師としての生活・生涯

[二]「聖書を」,一つの実例としてヨハネの黙示録 
(1)なぜ今回,ヨハネの黙示録
 ヨハネの黙示録,二通りの受け止め方
  難解な書として受け止められている場合.
  初代教会の人々に対する主イエスの慰めに満ちた力強い励ましのメッセージと見,個人的にも多くの励ましを得ている場合.

(2)聖書を読むとは
  何が書かれているか,主題・What.
  どのように書かれているか,展開・How.
  何故このことが,このように書かれたのか,著者の意図・神学・Whyを考えながら,その書の全体像・構造を見て行くことの大切さ. 
 これが,「聖書を読む」課題.
 しかし,さらに著者が,なぜこのような全体像・構造で描いているのか,著者の内面へと掘り下げて行く必要.その著者の内面に燃えるものから,今自分が直面している課題を見るとどのように受け止めることができるかを聖霊ご自身の導きを求めつつ探る必要,
 これが「聖書で」読む課題.火山岩とマグマの関係.

(3)ヨハネの黙示録の構造を中心に
◆何が,主題.1章1節,「イエス・キリストの黙示」
 イエス・キリスト「が」と取っても,「について」と取っても,中心は,主イエス・キリストご自身.特に,「しもべたち」,つまりキリスト者・教会との関係(世界全体,宇宙全体の背景の中で). 
◆いかに書かれているか,展開.
  三つの大きな区分
 はじめと終わりの部分に二つの区切り.一つは,3章22節と4章1節の間.もう一つは,最後の章22章5節と6節の間の区分.この区切りに従い,ヨハネの黙示録の大きな流れを,次の三つの部分に分けて考えて見る.
 イ1章から3章の部分
 ロ4章1節から22章5節の部分
ハ22章6節以下
 この中で,イとハの部分は,新約聖書が書かれた時代の手紙の書き方で記されており,ヨハネの黙示録は,手紙の枠組みの中に,4章1節から22章5節の多様な絵画的表現で描かれている部分がが挟まれるようにして位置し,全体が手紙としての枠組みを大切に読むように書かれている. 
 手紙の受け取り人について
 ヨハネの黙示録を手紙の枠組みを大切に読もうとすれば,当然枠組みの中で受け取り人について直接触れている点に注目する必要.枠組みのはじめの部分では,受け取り人について以下のような内容を伝えている.
 1章4節,「ヨハネから,アジアにある七つの教会へ」.
 1章11節,「あなたの見ることを巻き物にしるして,七つの教会,すなわち、エペソ,スミルナ,ペルガモ,サルデス,フィラデルフィヤ,ラオデキヤに送りなさい.」
 さらに枠組みの終わりの部分では,以下二つのことがらを明示.
 22章16節,「わたし,イエスは御使いを遣わして,諸教会について,これらのことをあなたがたにあかしした.」
 22章21節,「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように」.これは手紙の最後に見る,受け取り人に対する祝祷として定まった形式.
 これら受け取り人について書かれていることに注意し,ヨハネの黙示録の流れを全体として大きく見ると,1章4節に見る,手紙の差出人と受け取り人をはじめに明らかにする手紙の書き出しのあいさつから,22章21節の「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように,アーメン」に至るまで,結局手紙として読まれるように意図して書かれたし,そのように読まれるべきと見てよい.
 手紙の受け取り人である七つの教会は,1章11節では,一つ一つ特定の地域名で明らかに記し,何よりも,2章1節の「エペソにある教会の御使いに書き送れ」から,3章14節の「ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ」に至るまで,一つ一つ特定の地域教会に書き送られたとする手紙の形式.
 これらの手紙の性格については,大きく見て二つの異なる理解.
 イ.実際にヨハネにより書き送られたが,後にヨハネの黙示録に取り入れられ,ヨハネの黙示録執筆の目的に従い編集されたと見る.
 ロ.本来独立した実際に各地域教会に書き送られたものではなく,最初からヨハネの黙示録の一部として手紙であるかのような表現を用い記したもの,七つの手紙は互いに関係をはじめから持つ統一した文章と見る.  
 二つのいずれの説を取るにしても,七つの地域教会それぞれが他の六つの教会への手紙をも読むように構成されており,それぞれ一定の限られた地域に根差す教会という意味のみでの教会の地域性以上のものを指し示す.七つの教会はそれぞれ限られた地域(エペソならエペソ)に根差しながら,小アジアというより広い地域としては七つが一つの教会として生かされている姿を示す.二,三章の手紙は,その七つで一つ,一つで七つの教会に書き送られた手紙として読まれるように書かれており,二,三章を手掛かりに,ヨハネの黙示録全体が地域に根差し地域を越える七つにして一つ,一つにして七つの教会に書き送られた手紙として読まれることが意図されていると見るべきではないか.
 さらに,ただ地域を越えるばかりでなく,時代をも越える,いつでもどこでもそこに存在する教会(公同の教会)へ書き送られた手紙としての性格が現されており,それ故.今,沖縄に生かされる教会への手紙として読むことが可.

◆何故,著者の意図・メッセージ・神学.
 何故書かれたのか目的について考えると,すべてを主イエスを中心に見る見方・歴史を主イエスにあって見る見方を伝えるためと受け止め得る.
 以下三つの聖句を手掛かりにこの点を確認. 
 1章8節,「神である主,常にいまし,昔いまし,後に来られる方,万物の支配者がこう言われる.『わたしはアルファであり,オメガである.』」. 21章6節,「事は成就した,わたしはアルファであり,オメガである.最初で      あり,最後である.わたしは,渇く者には,いのちの水の源から      ,価なしに飲ませる.」.
 22章13節,「わたしはアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.初めであり,終わりである.」.
 万物の起源について.
 以上三つの聖句において明らかにされている第一の点は,歴史の起源について.主なる神こそ,万物の,歴史の起源を与えておられると.これこそ,聖書全体を貫く宣言で,何より創世記1章1節,「初めに,神が天と地を創造した」に明らかであり,この一点こそ,聖書が明かにしている歴史の見方の土台.
 万物の目標・完成について.
 聖書は,歴史をぐるりぐるりと循環していると見てはおらず,目標を目指し一直線に進むものと理解している(参照イザヤ65章17節,66章22節).ヨハネの黙示録においては,歴史の終末が,主イエスの再臨,新天新地の完成にあると,目標の内容を明示.
 起源から終末へ向かう途上
 以上のように,万物の起源が明らかにされ,目標が確認されることにより,すべての歴史は,今現に,終末へ向かう途上にあると受け止め,今,ここにある時が終末へ向けて,掛け替えのないものであると教えている.それぞれの時代に生かされる教会は,各時代にあって,今,そこで生き,戦う意味(戦闘の教会としての使命)を教えられ励ましを与えられている.

[三]「聖書」で.ヨハネの黙示録を通し,今,沖縄と沖縄のキリスト者・教会について読む試み
 以上ヨハネの黙示録は,歴史の各時代に生かされる教会が,それぞれの時代背景の中で,教理(教え)においても実践的生活においても,「聖い」教会として歩むことを目的として書かれていると確認.
 それ故今,ここ沖縄でのキリスト者・教会の歩みと世界・万物における主イエスの統治が決して切り離されたものではないことを教えられ,この私たちの小さい歩みが決して無駄でないと教えられ慰められる.励まされ,慰められている者として,ヨハネの黙示録を通して,今,沖縄,沖縄のキリスト者・教会について読む試みをして見たい.

(1)島に生かされる喜びー聖書に見る地理的センス,神のみ旨・計画における島々ー
 聖書は時,時間,歴史を大切にしている.聖書を読みつつ生き,生活・生涯を通して聖書を読む恵みを与えられている私たちが歴史的(時,時間)的センスを身に着けて行くのは自然.歴史的センスと言うとき,時や時代と共に,場所や地理的センスをも含む(参照 内村鑑三,『地理学考』などの初期の著作).
 たとえば,以下聖書から見る,「島]について.
 イザヤ書後半に繰り返し言及される,島々.
 イザヤ42章10,12節など,メシヤ預言の中で「島々」に言及.
 初代教会の福音宣教,教会形成における,「島々」の位置.
☆クレテ島.テトスの手紙1章5節(一つの島に複数の教会,その一致と協力),1章12節(島の歴史文化の徹底した学び),3章12節から15節(人と手紙による生き生きとした交流).

キプロス島使徒の働き11章19,20,21節(海を越え,文化人種の壁を越える福音の広がり,国外宣教の原点).
 教会の歴史における,島々の役割

☆中世ヨーロッパ宣教におけるアイルランドの役割.
 トマス・カイル,森夏樹訳,『聖者と学僧の島ー文明の灯を守ったアイルランドー』(青土社
 盛節子,『アイルランドの宗教と文化ーキリスト教の受容の歴史ー』(日本キリスト教団出版局)
 オフェイロン,『アイルランドー歴史と風土ー』(岩波文庫

カトリック教会の沖縄宣教.まず奄美大島,そして沖縄へ(安齊伸著,『南島におけるキリスト教の受容』,第一書房).
 島国日本などとはは,今日ほとんど言われない,その危険性.

(2)ヨハネの黙示録に見る視点.
 聖書に見る「島」,ヨハネが「神のことばとあかしとのゆえに」(ヨハネの黙示1章9節),流刑の身で礼拝の生活をなしたパトモス.
(イ)パトモスにあって,ヨハネは,主イエスの主権(参照1:8,21:6,22:13参照)を,徹底的に教えられる.キリスト論の確立

(ロ)「御霊に感じ」
 ヨハネ聖霊ご自身の導きにより,パトモスで小アジアの七つの教会それぞ れの個性と戦いを見分け,同時に一つの地域にある七つの教会を全体として 一つの教会のように見,ヨハネはそれぞれの教会に手紙を書く,少なくとも そのような表現方法.教会論の確立. 
 また「御霊に感じ」て,天からすべてを見る視点と視野を与えられる(黙示 録4:1,2参照).豊かな広がりを持つ聖霊論の確立.
 さらにヨハネ聖霊ご自身の導きにより,荒野の教会の姿・戦闘の教会のあり方を悟り(黙示録17:3以下参照),同時に勝利の教会についての洞察(黙示録21:10以下参照).聖霊ご自身に導かれ,ヨハネは主イエス・キリストに対し徹底した信仰の告白へ導かれ,キリストのからだ・教会の豊かさについて理解を与えられる.島の現実の中で,真の意味で,三位一体なる神の告白.

◆視点の大切さ
 紹介,宮崎清孝,上野直樹,『視点』,認知科学選書 ,東京大学出版会,1985年

◆祈りと視点.
 どこまでも現実的,どこまでも神の国
 モーセの実例に学ぶ,参照拙書,『申命記』(いのちのことば社),271ー273

(3)琉球語聖書の翻訳
 琉球讃美歌出版がなされている中で,聖書翻訳については.
 1996年12月文学者の方々のフォーラムに出席しての感想.
 特殊と普遍.話しことばと書きことばなどの課題.
 ルター聖書翻訳とドイツ語,聖書翻訳→言語のバプテスマ
 ペルーへのウィクリフ宣教師,林和子宣教師の場合,学校教育の中での二言語(スペイン語ケチュア語)教育に携わる.
 少なくとも,スコットランドスコットランド教会,スコットランド神学の関係から学ぶ必要.

(4)98年沖縄宣教・伝道会議(二本の柱,沖縄の教会の自己理解と宣教の課題の理解と実践)

[4]結び.
 聖書の道とは,本来の姿に立ち返りでは.キリスト者になるとは,私らしい私,人間らしい人間に立ち返ること.本来のアダム・人間,人間・私への回復,真のアダム・第二のアダム(ローマ5章, コリント15章),主イエスを通して.参照マルコ5章15節,ルカ15章17節,神との関係,人との関係,物質との関係のずれ・歪みの回復.この喜びのおとずれ.
 沖縄の教会(個と全体,特殊と普遍) としての道.そこに立って,沖縄の歴史と社会を直視する神学の営みと神学機関の位置,その背景として聖霊・聖書に導かれるエキュメニズムの道を歩むキリスト者・教会.