聖書に見る島・沖縄 再録

聖書に見る島・沖縄  再録

ウチナーンチュ(沖縄人)の部屋祈祷会再開に備えて
2018年1月から、江戸川区北小岩2−2−8−402
宮村武夫・君代宅で、月に2回沖縄、特に基地返還後の活用のために祈る祈祷会を再開したく願っています。

聖書に見る島・沖縄[1] 序
聖書が時、時間、歴史を大切にしていることは明らかです。ですから聖書を読みつつ生き、活・生涯を通して聖書を読む恵みを与えられている私たちが歴史的(時,時間)的センスを身に着けて行くのは自然なことです。そして歴史的センスと言うとき、時や時代と共に、場所や地理的センスを当然含みます。
  地理的センスにこだわるのは、個人的な経験とも関係します。最初に仕えることを許された教会は関東平野の北西の端、次の教会は東京の西の端に所在。
そして首里福音教会。沖縄は日本の南の端だと位置づけられます。首里福音教会の講壇中央にある十字架の下に置き続けた地球儀はそんなこと少しも示していません。

[2]聖書に見る地理的センス、神のみ旨・計画における「島々」。
 沖縄の諸教会にとって、離島伝道は教会のあり方そのものに深くかかわると自覚し、家庭集会の一つではイザヤ書を読み進めながら離島の一つ伊江島宣教のため祈り続けました。離島伝道に目を据えて見通す限り、沖縄宣教は戦後後退しています。

[2]聖書に見る「島々」
(1)イザヤ書後半に繰り返し言及される島々。
 イザヤ42章10、12節など,メシヤ預言の中で「島々」について言及している意味。
 
(2)初代教会の福音宣教,教会形成における、「島々」の位置。
☆クレテ島.テトスの手紙1章5節(一つの島に複数の教会、その一致と協力)、1章12節(島の歴史文化の徹底した学び)、3章12節から15節(人と手紙による生き生きとした交流)。

キプロス島使徒の働き11章19、20,21節(海を越、文化人種の壁を越える福音の広がり、国外宣教の原点)。
 
(3)教会の歴史における、島々の役割。
☆中世ヨーロッパ宣教におけるアイスランドの役割。
カトリック教会の沖縄宣教。まず奄美大島、そして沖縄へ(安齊伸著,『南島におけるキリスト教の受容』,第一書房)。 
島国日本などとは、今日ほとんど言われないし、その意識も薄い。これはやはり危険なことではないか。

[3]ヨハネの黙示録に見る視点.
聖書に見る「島」と言えば、ヨハネが「神のことばとあかしとのゆえに」(ヨハネの黙示1章9節)、流刑の地として礼拝の生活をおくったパトモスを見逃すことができない。
(1)南北約16キロ、東西9キロのパトモスにあってヨハネは主イエス・キリストの主権(参照1:8,21:6,22:13参照)について徹底的に教えられます。

(2)「御霊に感じ」
 ヨハネ聖霊ご自身の導きにより、パトモスに生きて小アジアの七つの教会それぞれの個性と戦いを見分ける。
同時に一つの地域にある七つの教会を全体として一つの教会として見、ヨハネはそれぞれの教会に手紙を書くのです。
  しかしそれだけではありません。「御霊に感じ」て、天からすべてを見る視点と視野を与えられます(黙示録4:1,2参照)。
 さらにヨハネ聖霊ご自身の導きにより,荒野の教会の姿,つまり戦闘の教会のあり方を悟り(黙示録17:3以下参照)、同時に勝利の教会について深く洞察します(黙示録21:10以下参照)。
 聖霊ご自身に導かれ,ヨハネは主イエス・キリストについて徹底した信仰の告白へ導かれ,キリストのからだである教会の豊かさについて理解を与えられているのです。

[4]集中と展開
(1)集中
伊江島伊江島中高キャンプの十数年の歩み

(2)展開
伊江島中高キャンププログラムの頂点:タッチュウ山頂でのコロサイ3章11節の朗読
キリストを視点に、万物を視野に。いつでもどこでも。