民数記味読・身読の手引き その1民数記1章
[1]大きな流れ・構造
(1)1章1節-10章10節
第2年目の第2月の1日、シナイからカナンへの旅の最後の備え(レビ記で学んだ、狭い意味での礼拝の生活を踏まえて)。
(2)10章11節-22章1節
第2年目の第2月の20日、導きの雲があかしの幕屋の上から離れ上る。主なる神の命令により開始する旅立ち。部族ごとに旗を中心に出発。旅立ちの描写は、絵巻物を見るように印象的。
(3)22章2節-36章13節
モアブの荒野の旅、時間的には、37、8年間。申命記は回顧録(かいころく)、民数記は、実況放送のように。旅する神の民の姿。父の家、偶像礼拝の地を離れて、約束の地に向かうアブラハムのように。ここでは、個人ではなく、共同体がエジプト出て(出エジプト)、約束の地に向かう。
[2]1章
(1)1章1-3節
20歳以上で軍務につけるすべてのの男子を、一人一人数える。
個と全体。一面からは全体として見、同時に、もう一つの面からは、個(人)として見る。個(人)は、決して無視されないが、単なる烏合(うごう)の衆ではない。統一があり、秩序がある。氏族ごとに、父祖の家ごとに整え。
出エジプトのときは、単なる群衆としてエジプトを後にしたように見える。しかし信仰共同体として、次第に整えられて行く。信仰告白が大切な役割。何を信じ、何に従うか、意識的な決断をなして加わっている群れ。
今日の教会・キリストを信じ、キリストに従う信仰共同体も、秩序ある戦う共同体。霊的な秩序、戦いの備えがなされ続ける。放浪者(ほうもうしゃ)には、目的地がないが、旅人には出発点と目的地がある。キリスト者・教会は、この世にあっては寄留の民であるが、放浪者(ほうろうしゃ)ではない。
目的地を持つ旅人。霊の秩序としての家族、組織が重視される。家族は教会、教会は家族。参照祈りの家族の例。これらの基本をすでに、民数記に見る。
26章において、第2回目の人口調査の記事が登場。この場合は、戦いのためばかりでなく、約束の地における土地分割のため。それで家族、氏族についての言及(げんきゅう)ばかりでなく、地域についても言及(げんきゅう)。そこでは、地域の側面が加えられて、信仰の戦いを戦う。
私たちに委ねられている場所は、荒野の旅の時のようには、動かない。それで、この第2回目の人口調査の記事を十分参照する必要がある。家族が教会、教会が家族。これに加えて、地域性。例えば、伊江島について。
民数記の原則を、私たちの歩みの中で、いかに生き生きと受け止めて行くか。1章1章の学びが私たちの歩みに影響を与え、私たちが実際の生活の経験を重ね続ける中で、私たちのみことばの学びが深められて行くように。
(2)1章4節-16節
聖書に登場する人名に詳しい方でも、ここに見る人名はほとんど記憶されていないのでは。助手、協力者。人口調査を実行するためには、協力者が必要。まさにチームを組んでの戦い。チーム・プレイ。人口調査をせよと主なる神に命じられたのは、モーセとアロン。協力者は、モーセとアロンと一つになって進む。神の御業は、いつもこの形をもって進められて行く。協力者の必要性。協力し会うこと。これを骨の髄(ずい)まで受け止めに行かなければ、組織は形骸化(けいがいか)してしまう。旅立ちの第一歩で、この点確認。
助手は、確かにモーセとアロンの関係では、助手。しかし同時に、分団においては、頭であり、一つの役割、責任を与えられている。普通、一人の人は、以上に見る二面を求められる。真の意味でリーダーシップのある人でないと助手になれない。また仕えられない人は、頭となることもできない。自分の役割、分をわきまえ、分を果たす。地域教会において、この訓練がなされて行くように。真の意味での人材を家庭から、職場から迎え、僕の道を。教会で僕の道を体得する人は、家庭で社会で、真のリーダーとして生かされる。真に頭となり助手となるが生まれ、育ち、派遣されて行く群れとしての歩み。では、どのようにしてか。祈りつつ。祈りの群れとして。
(3)1章17節-
系図、組織。親から子への継承(けいしょう)。1960年代、1970年代の福音的な教会では、多くの場合、どのようにして年配の方々を教会へ迎えることができるかが課題。今日は、いかにして青年を迎え得るか、多くの教会の課題。 真の課題は、次代を育てることのできる、老人らしい老人。
参照詩篇71篇9節-20節。シメオンやアンナのような、ルカ2章25節-38節。この課題を、一人一人が私の課題として、荒野の旅を導きくださるお方を仰ぎつつ、民数記の学びを進めたい。