小沢容子姉、そして青梅キリスト教会、恵みの思い出

小沢容子姉、そして青梅キリスト教会、恵みの思い出

 一枚の便せんに書かれた、青梅キリスト教の小沢容子姉の詩が、資料の間から出て来ました。
 小児麻痺の痛みと痙攣を身に帯びつつ生涯を全う御許に召された容子姉。新井オイツ姉をはじめ、身近の方々の口述で残された文章。
そして私なりに経験した青梅キリスト教会を通しての恵み、感謝して再述し、希望の青梅キリスト教会を覚えます・

下働きの人
          故小沢容子姉(青梅キリスト教会)
おそうじ、便所そうじ、おしめ取り換え
私は、そう言う人を尊敬する
そういうう人がいなかったならば
ドクターもろうかを歩けず
面会人もろうかを歩けない
そういう方々を尊敬する

★「四人の息子たちの故郷での日々を記念して」-----------------------
 宮村武夫

青梅キリスト教会50周年記念・会堂記念誌への寄稿の依頼を受け、感謝します。
青梅・小作時代は、家長である私の30代の丸まる10年と40代の前半を含む期間で、四人の子供たちそれぞれにとり意味合いが異なる面がある、故郷の日々でした。
忘れ難い思い出のひとつは、毎週の「礼拝の生活」です。
以下に三回の主日の巻頭言を再録し、青梅キリスト教会の一員として歩ませて頂いた恵みを、主に兄姉方に感謝して記念します。
表現の細部におけるわずかな訂正は、青梅を去ってからの25年の表現者の軽やかさ(マタイ11章30節)を求める自己否定の営みの証ともなれば、幸いです。

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1971年(昭和46)10月10日発行 礼拝の生活 第60
号 特別伝道集会の目的

 十一月五日(金)、六日(土)、七日(日)毎夕七時からの特別
伝道集会のために、祈りつつ準備がなされています。ここで、この
特別集会の目的を、もう一度再確認することは、決して無駄なこと
ではありません。はっきりと目的を見つめなければ、着実な、
忍耐のいる準備は不可能ですから。
 では、特別伝道集会が開かれる目的は何なのでしょうか。実に単
純です。聖書の言葉を聞くためです。特別伝道集会は、聖書の言葉
を聞く集りなのです。しかし、聖書の言葉を聞くのは、教会のすべ
ての集りの目的であって、何もこの特別伝道集会に限ったことでは
ない。
 それなのに、なぜ、「特別」、あるいは、「伝道」と特に強調す
るのか。これまた、非常に単純な理由からです。「特別」 とは、忙しい毎日を送っている私たちが、この忙しさの中で、この
機会を通して集中的に聖書に聞くためです。「いつまでも残るも
の」として、聖書が宣言している信仰、希望、愛について、三日間
集中的に聖書から聞くこと、これは、今までに聖書を読み続けなが
ら、また、何回も教会に出席しながらも、信仰の決断をできずにいた
人々にとって、特に意味深い機会であると確信します。また、「伝
道」と強調するのは、今まで聖書を一度も読んだことのない方、教
会に一度も出席したことのない方の幾人かが唯一の、生ける、真の
神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶ人生を送る決心をなさる機会とな
るよう切望するからです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイ
エスから目を離さないでいなさい」(ヘブル十二:2)

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1971年(昭和46)10月3日発行 礼拝の生活 第
59号 点から線へ
 私たち青梅キリスト教会は、今、大切な過渡期にあります。
 青梅キリスト教会が、現在、自立、自給、自伝の教会として存在
できるようになった背後には、二十年間の祈りと戦いの歴史がありま
す。私たちが少しでも想像力を用いるなら、この二十年間に費やさ
れた膨大なエネルギーを知らされ、ただ驚くばかりです、歴史 の流れの中に、一つの教会が生きて存在する、この事実が、いかに大きな
恵みであるかを考えて、実に厳粛な思いにさせられます。
 しかし、青梅キリスト教会の存在は、ある意味で未だただ点としての存在 です。点として存在することは、実に大切なことです。本当に大 変なことです。けれども教会は、点として存在するだけで満足して はなりません。
 青梅キリスト教会が、今、大切な過渡期にあるとは、点から線へ
の展望をしっかり持って、苦しみつつ成長するときにあるという意味なのです。
線へとは、具体的には、奥多摩や小作地区への宣教活動として現わ されます。しかし重要なことは、目に見える面ばかりではありませ ん。何よりも、意識の問題です。意欲の問題です。
 私たち各自が一点の光として、一粒の塩として存在するようにな
るために払われた大きな犠牲を深く自覚するものでありたいと思い
ます。そして、点として満足してしまうのではなく、線への広がり
を内から導かれたいと願います。使徒の働きの一章八節を、私たち
に体験させられたいと望みます。
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは
力を受けます。そして・・・」

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1971年(昭和46)9月26日発行 礼拝の生活 第
58号 「あること」と「すること」
 10月3日の臨時総会を前に、教会についてまた、キリ
スト者各個人について、もう一度考えさせられます。それは、教会として「あること」と教会として「すること」、 また、キリスト者個人として「あること」とキリスト者個人として 「すること」の関係、つまり、存在と行為の関係についてです。
 教会が存在することと教会として活動することを、きっぱりと分
けることは確かに不可能です。しかし、教会が組織として何か動く
ことだけが大切だとの考えに支配されて、他の一面を忘れない注意をしたいものです。
一見何もしていないように見える ときでも、教会は存在し続け、生き続けます。唯一の、生ける、真 の神を礼拝する群れが存在する、その事実の中に含まれている重大な意味を認める必要があります。私たちの日常生活の中でも、その 人がそこにいるだけで、何をしなくても、何も話さなくても、周囲 の雰囲気があたたかくなるような人に出会います。教会としても、 各個人としても、「あること」の意味深さをもっともっと深く味わ いたいものです。
 そうは言っても、種々の働き、活動を軽視することにはなりませ
ん。私たちは、教会としても、キリスト者個人としても、活動しつ
つ存在します。何もしないことも大切な行為のひとつなのです。ですから、目 あてをはっきり見据えて、柔軟に活動し続けていくべきです。
 「あること」と「すること」の両面は、そうです、成長という恵みの一事に含まれるのです。総会で共に考え味わいましょう。