クリスチャン新聞と私ー特に二つの思い出ーその3

クリスチャン新聞と私ー特に二つの思い出ーその3

20代から30代への節目を通過する時期に経験した、クリスチャン新聞との出会い、その大型企画の展開を見聞きし、その中で小さいながら役割を与えられたことは、忘れがたい思い出です。
 その後も、書評などを中心に依頼を受けたら、原則引け受けるようにしていました。何より、「いのちのことば社」そのものの大枠の中で、『新聖書注解』から始まって幾つかの刊行に、役割を委ねられ応答する過程で訓練を受け育てられたと自覚し感謝しています。

 そのような10数年が経過する中で、1986年4月、私ども家族が沖縄に移住した際、二番目の忘れがたい思い出となる恵みの経験をしたのです。
 当時稲垣久和先生がキリスト教学園で教え始めておられ、私たちは、直ぐに意気投合。その稲垣先生はクリスチャン新聞の働きをなさっておられ、沖縄へ行って何をするのかいぶかるいぶかる向きもある中で、私のため配慮してくださったのです。そうです、クリスチャン新聞にコラム『季節の窓』を用意、毎月文章を書く企画を、私が沖縄へ出発する前から立ててくださったのです。
 移動した4月からコラムを書きましたが、間もなく毎月特定の個人に実際に手紙を書き、それをコラムに掲載する方法を始め、2年間最後まで続けました。不特定多数の方々に書くのではなく、具体的の実情に即して書くのです。しかもどなたが読んでも、その人の課題として受け入れられる普遍性を持たねばならないのです。このように意識をしながら書き続けながら、1つの文体が生まれて行ったのです。これは、私での25年間の歩みにとって重い基盤となる恵みであり、それは現在にも波及していると理解します。

 以下は、東京江戸川区小岩小学校5年、6年担任の花井先生へ実際に書き送り、コラム「季節の窓」に掲載しました。
 小岩、それは小学校4年生から高校時代まで育った地であり、何よりもキリスト信仰に導かれた地です。その小岩に、2014年3月50年振りに戻りました。
 高校時代時代信仰の導きを受けた母教会は、現在の住まいから、杖を突きながらの私の足でも20分はかからない、60年前と同じ場所にあります。
 小岩に再び住むようになった恵みの一つは、小岩での思い出が鮮明に心に浮かぶことで、の教えを、聖書をメガネに新しく、より深く受け止めています。
 花井先生は、私たちが沖縄にいる時に死去されました。もう直接お会いできませんが、この小岩で、なお教えを反芻味わい続けたいと思いを新たにしています。

★「季節の窓―担われて生きる事の大切さ
宮村 武夫(首里福音教会牧師)

○小学校時代の先生へ
 H先生。8月25日の夜、受話器から聞こえてくる「宮村君」との声にびっくりしました。遠く千葉県I市から、台風13号の直撃を心配して沖縄まで電話をくださったと知り、H先生担当クラスの一員であった小学校5、6年生のころに戻った思いでした。

 小学校卒業後30数年、6年前の大手術の為退職なさったとは言え、H先生は依然として私共の先生です。こちらに来てからも、4月、6月、8月と受け取ったお便りで励まされ、教えられました。そして、卒業記念文集に先生がお書きになられた文章を思い巡らします。

『みなさん卒業おめでとう。みなさんの中には、身体の弱い人もありました。少しわがままな人もありました。考える力の足りない人もありましたね。けれどもそれぞれの人が、自分の力を知って努力し、又みんなが助け合いはげまし合って今日を迎え、そろって卒業の出来ることは、なにものにも代えることが出来ない程うれしいことなのです。
 春の野山をかざる草花は自然のままにつつましく命をのばしています。すみれはすみれとしての命を大切にしています。たんぽぽも同じです。自然の命を大事にのばし、つつましく咲いて、そこに春の野全体の美しさが生まれているのです。人の世の中も又同じです……』

 前にも書いたことがありますが、H先生が指し示して下さったものの成就を、唯一の神が万物を創造なさったとの聖書の宣言の中に見いだしたと思います。唯一の、生ける、真の神が万物を創造し統治なさっている事実ゆえに個を絶対軽視したり、まして無視してはいけないと。

 先日のお便りの言葉も印象的でした。
『よく皆様に『退職されてから、毎日、何していられるのですか。』と聞かれますが、とりたてて物を習ったりしてはおりません。毎日家にいて、同じ事の繰り返し、ことさら変化はありませんが、特別に退屈だとも思いません。
 そうした中にも自然界の季節の移り行く様子を見、友人と会って語りあったり、電話でお声を聞いたり、そしてお便りを頂いたりお返事を書いたりしている日々の中に、言葉や文字に表せない尊い教えを知り、豊かな心を育んでゆける今の自分をありがたく思っております。』

 H先生の言葉を私なりに味わっています。そして先生が身をもって指し示してくださっている生き方から、聖書のメッセージへと今回も導かれます。
 例えば、旧約聖書イザヤ書46章3、4節。人々の重荷になってしまう偶像との鋭い対比で、生ける神に担われて生かされる道が明示されています。

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ、
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」

 10月の初め一週間集中講義のため上京予定です。その際第1金曜日夜には、I市のO君の家庭集会に是非出席したいと考えています。ご一緒出来ればどんなに幸いでしょうか。I市のO君。前にお伝えしましたように、彼は、中学一年生の時の同級生です。ご両親のキリスト信仰に、彼らご夫妻、3人の子供達も導かれています。彼のお母さんの最晩年の歩み、彼を初め、家族の方々や周囲の人々に深い印象を残しています。担われて生きる人間本来の姿を指し示しておられたようです。自らが担われて生きている事実を知っている方が、人々を担う。
 9月の日々もお元気でお過ごし下さいますように。」