『芦屋浜通信151号』2017/10/1 藤原信之
『芦屋浜通信151号』2017/10/1 藤原信之
☆1958年4月、日本クリスチャンカレッジの寮の同室者として出会った藤原信之兄から、『芦屋浜通信151号』の恵送。深い共感をもって味読・身読です。
キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。
わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。①
《弱さを誇る》
キリスト信者とは、弱かった者がキリストを信じて強い者に変えられたという者ではない。「キリストに結ばれた弱い者」なのだ。
弱さを誇る人がいるだろうか。
出身校を誇り、役職を誇り、財を誇り、若さを誇る。
人が誇るとき相手を軽んじている。だから社会的に身分の高い人と交際したがるのでしょう。
イエス・キリストはその真逆であられた。②
神と等しい者であることに固執なさらず、③
社会的に身分の低い下級労働者や、「徴税人、罪人、罪深い女」と蔑称されていた人たちと食事を共にされるのが常であった。④
イエス・キリストにとって軽んじる人は一人も存在しなかった。
イエス・キリストは、私たちと同じ罪人の弱さを担ってこの世を生き通された。⑤
パウロは、このキリストの生き様を身をもって教えられた人だ。
彼には、高慢にならないようにと彼を打つ棘が与えられていた。それを取り除いてもらいたいと祈り願ったとき、イエス・キリストは、
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と答えられた。⑥
ということは、棘(弱さ)を担ったままで生きなさいということだ。
それ以後パウロは
「私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。それは、キリストの力が私の上に宿るためである。」⑥
という生き方に変えられた。
弱さを誇りつつ生きる弱いパウロ。
十字架のキリストの弱さに結ばれて、弱い者としてキリストと共に生きるキリスト信者。
キリスト信者は脆くて弱い土の器。⑦
ちょっとした外圧で壊れる。
しかし、その中に宝を持っている。
四方から患難を受けても窮しない。
途方にくれても行き詰まらない。
迫害に会っても見捨てられない。
倒されても滅びない。⑦
キリスト信者は今も、
四方から苦しめられ、
途方に暮れ、
迫害され、
倒されることもある。
キリスト信者は、キリストの弱さに結ばれた弱い者、壊れやすい土の器。
しかしその中に宝を持っている。
神に愛され守られ支えられているという宝を。
この宝は弱さの中でこそ十分に発揮される。
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脚 注
①Ⅱコリント13:4
②高田静太郎
③フィリピ2:6
④マルコ2:15、ルカ15:1、ルカ7:39
⑤ローマ8:3ローマ8:3
⑥第二コリント12:9〜
⑦第二コリント4:7〜