聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その6 「ひたすら十字架の主を仰ぎ見」る  コラムニスト : 宮村武夫

聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その6 「ひたすら十字架の主を仰ぎ見」る 
コラムニスト : 宮村武夫

高橋三郎・島崎暉久共著『仰瞻・沖縄・無教会』(1997年、証言社)への応答
3. 3つの応答
次に、本書の各論考の内容から教えられる課題をめぐり、以下3つの点に限り応答したいのです。
(1)「ひたすら十字架の主を仰ぎ見」る――聖書とキリスト――
第一の点。それは、「無教会とは何か」の問いに対する答えは、「第一論考に語り尽くされている」として、「『ひたすら十字架の主を仰ぎ見』ること」(3ページ)と要約している事実についてです。つまり、内村鑑三特愛の言葉、「仰瞻(ぎょうせん)」に表現される信仰の在り方、「統合の原点をこのキリストの中にのみ見ていたという点」(9ページ)をめぐってです。
内村鑑三自身が、「キリストを仰ぎ望み、幼な子のようにその救いにひたと依り縋(すが)りつつ、その忠実な証し人として一生を貫いた人」(9ページ)として、生活・生涯を通し実践し、模範を示している点をめぐってです。
このキリストの中にのみ、統合点を持つとの指摘とともに、本書において他の2つの統合点を示唆している事実も注意を引きます。
1つは、無教会エクレシアに見る自由について、聖霊ご自身との関わりに焦点を合わせ、「ひたすら御霊の導きを信じ、一人ひとりを全き自由の中へ放置する無教会」(70ページ)、「御霊に従おうとする心。御霊の声を聞く耳、それだけなのだ」(70ページ)と言われている点です。
「なんという自由だろうか」(70ページ)と、それが本来あるべき姿にあるときについての喜び、同時に「恐るべき自由というほかはない」(70ページ)と、本来の姿に留まり続けるべき責任の自覚とそこから逸脱する可能性への慎みを、本書において明らかにしている事実を見ます。
他の1つは、「聖書を虚心に精読した内村の弟子たち」(70ページ)と、聖書に対する姿勢をもって、本来の無教会の在り方を示す事実です。
以上、本書において、本来の無教会の統合の原点を、キリストご自身、聖霊ご自身、また聖書との関係に見ている事実は、何より注目すべきです。それは無教会だけでなく、もちろん、本来の教会の在り方でもあります。本書の序において引用している『日本の無教会運動』に提示されているエミール・ブルンナーの言葉、「われわれプロテスタント宗教改革者たちに負うところの認識、すなわち何が真の信仰であり、したがって何が真のエクレシア、真の信仰共同体であるかという認識」(2ページ)と深く関わる事柄です。
16世紀の宗教改革に負う本来のプロテスタントは、真の信仰がキリストを仰ぎ見ることであり、真のエクレシアはこの信仰を通し生かされる信仰共同体であるとの認識に立ちます。
しかしさらに問題は、キリスト、聖霊、聖書、そして教会の関係をどのように受け止め、実践するかです。「ひたすら十字架上の主を仰ぎ見」(9ページ)る、この道を実践するのは、どのようにしてか。「聖書を虚心に精読した内村の弟子たち」(70ページ)の姿の中に、1つの模範を見ます。聖書の下に立ち、何が、いかに、そしてなぜ書かれているか聴き、生活・生涯において聖書に従う道を通し、キリストを仰ぎ見るのです。
確かに、上記のエミール・ブルンナーの紹介の言葉は直接言及していませんが、「聖書のみ」が16世紀の宗教改革の主張の大切な鍵の1つであることを確認する必要を覚えます。
「ひたすら御霊の導きを信じ、一人ひとりを全き自由の中へ放置する無教会」(70ページ)、それは「恐るべき自由というほかはない」(70ページ)ほどのものです。しかし、聖書という信仰と生活の唯一の規範に従う故に、それは単に放置された自由ではない。
規範としての聖書、「戦いの原点」(60ページ)である「戒め」を与えられているわけですから、「これを日常生活の原点に据えて、これを実行する。すると厳しい戒めの背後から御霊がおそいかかり、完全に打ちのめされる・・・その時が古き自己の死です。・・・父祖の罪の血から救い出される時です。新生です。歓びです」(60ページ)と証ししている消息です。
「聖書を虚心に精読」するとは、聖書は聖霊の導きにより記された書であるから誤りのない書、しかし教会は、聖書と聖霊に導かれながらも誤り得ると認め、常に改革され続ける悔い改めの道を進むことではないか。そしてこの道は、聖霊ご自身、聖書、教会・エクレシアの相互関係を、以下の三重の意味でダイナミックに受け止めて生きる生活・生涯をもって歩む道です。
聖霊と聖書(聖書は神の霊感による書)
聖書と教会(聖書は信仰と生活の唯一の規範)
聖霊と教会(聖霊と聖書に導かれ、常に攻撃され続ける教会)
聖書を誤りなき神の言葉として受け止め、聖霊と教会の生きた関係を重視する道は、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦(ゆる)し、身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず。アーメン」と、使徒信条が告白している道に外ならないといえます。
本書において「使徒信絛の棒読み」(70ページ)を否定的に受け止める一方、本来の無教会の姿を、「かれらはみな、主体的な決断によって、使徒信絛の信仰を告白した」(70ページ)と描く事実の意味は重いのです。
さらに若い世代への信仰の継承を真に実践せんとする場から、『高校生と学ぶ使徒信条』『高校生と学ぶ十戒』『高校生と学ぶ山上の説教』(いずれも武祐一郎著)が生み出されてきた意味は、どれほど強調しても強調し過ぎではないほど、重大な意味があります。
この営みは、16世紀の宗教改革者が、一方においては聖書を直接読み続け、聖書釈義、講解に集中すると同時に、並行してなし続けた営み(十戒、主の祈り、使徒信条の意味理解の努力を積み重ねることなどを通して)です。
「ひたすら十字架の主を仰ぎ見」ることが、単なるモットーではなく、「この思想を文字通り実践する」ためには、聖書に直接に聴く、狭い意味で聖書釈義をなし続けることは不可欠です。しかし、同時に使徒信条に総括されている視点、つまり三位一体なる神の視点から聖書を、そして創造者なる神が創造し保持なさっている私・人間、歴史、また万物を見、理解し続けていく道、つまり教義学や聖書に基づく人生観や世界観の確立も不可欠です。
その両者を並行してなし続けながら、自己を否定していく道を進むのです。その時、確かに、「われわれの前に横たわる諸問題は徐々に解決されて行くであろう。そして全世界はやがて、希望と平安にみたされる」(3ページ)との約束の道を進むことになります。
三位一体の神を信じる道。それは、島崎暉久先生が1996年6月16日の講演会で引用した内村鑑三の文章がよく示していると見ます。
「余輩は余輩の無教会主義に、ある真理の存するを知る。またすべての教会に、ある他の真理の存するを知る。真理は一人または一団体の専有し得べきものにあらず。・・・われらは真理の深き所において互いに相一致すべきなり」(80、81ページ)
一部をもって全体であるかのごとく錯覚しない。一面を全面であるかのように主張しない。一部であっても真理、真理であっても一部、一面であっても真理、真理であっても一面。この慎み、この愛、この力(Ⅱテモテ1章11節)の道です。
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◇1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長、17年4月から同論説主幹。