聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その1  コラムニスト : 宮村武夫

聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その1 
コラムニスト : 宮村武夫

☆青梅キリスト教会を離れる決心をし、キリスト教学園での生活の準備を完了した時点で、思いもよらぬ方の思いもよらぬ言動が明らかになり、私たちは退くことも進むこともできない、行く所のない状態になりました。
そうした中で、当時の学園理事長の安藤仲市先生の心のこもったお言葉に従うことなく、他に行く所がない思いで向かった沖縄。そこで学んだことの1つは、日本クリスチャンカレッジ時代身に着けた学びの方法の継続です。そうです。1冊の本をゆっくり読みながら、自分なりの思索を重ね、その営みを書き表し対話を重ねることです。
その実例の1つが、『仰瞻(ぎょうせん)・沖縄・無教会』です。

★『仰瞻・沖縄・無教会』への応答 宮村武夫
1. 序
本書は、高橋三郎先生と島崎暉久先生の特別な意味での共著です。内容・構成は、以下の通り。
一 序 島崎暉久先生
二 回顧と仰瞻 高橋三郎
元々『十字架の言』一九九七年四月号所載
三 沖縄からの叫び 島崎暉久
元々『証言』一九九六年七月・八月号所載
同年六月十六日、沖縄の宜野湾セミナーハウスで開かれた内村鑑三先生記念キリスト教講演会での講話に加筆し整理なされたもの。
四 無教会はどこへ行くのか 島崎暉久
元々『証言』一九九六年九月号所載
五 あとがき 島崎暉久

 全体で92ページの、量的には決して大きな本とはいえないものです。筆者は、1986年4月沖縄に移住以来、「十字架の言」の読書会に参加、以前は個人的に読んでいた「十字架の言」を、読書会の皆さんと一緒に味読するようになりました。
 また、内村鑑三先生記念キリスト教講演会にも、特別な事情のない限り毎年出席させていただいており、「沖縄からの叫び」の講演も直接お聞きし、間もなくご恵送いただいた「証言」誌上で文章として読み、今回本書の一部として再度味わうことを許されました。

 このような背景の中で、「序」の島崎先生の言葉を手引きに、現に沖縄に住む1人の人間、キリスト者、いわゆる福音派(聖書信仰を強調する保守的プロテスタント)と呼ばれる教会の牧師として、本書を感謝して読ませていただきましたので、小さな応答をなしたいのです。

 第一に、本書の各論考で何が、いかに、なぜ書かれているか聴き取りたいのです。次に、本書の各論考の内容から、特に示唆される課題をめぐり、以下の3つの点に限り、応答したいのです。
①「ひたすら十字架の主を仰ぎ見」る――聖書とキリスト――
② 沖縄、地理的センス
③ 無教会、聖書の契約構造に見る神の民の位置――聖なる公同の教会――
そして最後に、高橋三郎先生と島崎暉久先生への感謝を、「心を開く」(Ⅱコリント7章2節)を中心に、以下読み取りを進め、応答をなしていく過程で、序に見る、島崎先生の「この本を読む順序」(1ページ)についての助言に従いたいのです。

第一論考「回顧と仰瞻」を重い思想を提出するもの、「沖縄からの叫び」を事実を明らかにする論考として、まず後者から読み、「無教会はどこへ行くのか」に進み、最後に「回顧と仰瞻」へ戻り、その重い内容を理解し追体験するようにとの勧めです。この勧めは、思想と事実、思想と実践、読むことと生きることとの関係をめぐる大切な指摘です。

 本書全体を通じて、細心の注意を払い読み進めたいと意識した点の1つは、「しかし」「それにもかかわらず」など、どんな聖書辞典、神学辞典にも登場しない平凡な用語についてです。このような接続詞、関係副詞などこそ、本書味読の鍵と思われます。
 たとえば、序文の最後、「すると当然人は、無教会とは何かを問うのだが、その本質は端的に本書の第一論考に語り尽くされていると私は思う。それは一言で、『ひたすら十字架の主を仰ぎ見』ることにほかならない。しかしこの思想を文字通り実践することは大変むずかしい。それにもかかわらずこの一点に立ち切って前進を開始するならば、われわれの前に横たわる諸問題は徐々に解決されて行くであろう。そして全世界はやがて、希望と平安に満たされるであろう」(3ページ、アンダーライン、筆者)
日常用語で親しみやすい表現が、論理展開を明らかにする上で的確に用いられている点、印象的です(参照:沢田允茂著『論理と思想構造』講談社学術文庫、47ページ以下)
(つづく)
<<前回へ
◇1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長、17年4月から同論説主幹。