クリスチャントゥデイに対する疑義に対する、私の戦略的基盤と戦術的自覚

クリスチャントゥデイに対する疑義に対する、私の戦略的基盤と戦術的自覚

 私の率直な感じは、「張牧師」については、私ばかりでなく、私の周囲のクリスチャントゥデイに批判的意見を持つ多くの方々も、個人的人格的な知らないと受け止めています。

 私が50年前、ハーバート神学へ進学しようとした際、リベラルだからと反対され、帰国後もハーバートだからと警戒されることがありました。その上、上智の神学部ということで、同様なことが繰り返されました。
 
 そして私にとっての課題、あえて言えば敵は、ハーバートでも上智でもなく、いわゆる福音派と言われた教会の群れや神学機関における、そして私自身の内部における、
①あることをないかのようにする、
②ないことをあるかのようにする傾向・実体との戦いです。
私は、ヨハネ4:44を中心とする、ヨハネ4:31−47を重視します。

またⅡペテロの構造
1章キリストの復活
2章偽兄弟
3章キリストの再臨における偽兄弟の位置を注目します。
そして、すべてはローマ8:18−25における、
①個人のからだの贖いにおける心のうめきと
②被造物全体の宇宙論的うめきの不可分の結びつき。
上記の戦略的総観と共でなければ、カルト問題と言われる課題に、効果的な戦術的な対応はできないのではないか。
 これが、「聖書をメガネに」との私自身の生活と生涯の在り方です。木は実で知られるとの判断を受ける覚悟をしています。

 私がインターネット上のやり取りに加わるよう紹介してくださった、M先生、やり取りの現場で出会ったU先生、やり取りで、その適格なコメントに私が心惹かれ、その後対話を深めている、K先生。このお三人は、私にとって、クリスチャントゥデイをめぐる、時に余りうれしくない言葉を聞いたり読んだりする中で、浅からぬ慰めを与えて下さる、新しい友です、感謝。