高校の後輩・ドラマー市原康兄のなんじゃもんじゃ

高校の後輩・ドラマー市原康兄のなんじゃもんじゃ

★ペンケン祈祷会のメンバーリストに、後輩のドラマー市原名前を見るのは、とてもうれしいです。
 彼らのCD・TRIO'AMAZING GRACEを聴いて気合を入れられ慰められます。
それだけではありません。ドラマー市原康兄のなんじゃもんじゃがあります。
今回は、キリスト教談義 その10 【 聖書を読むと何が分かるのか・・】があります。長編ですが、一挙に紹介します。

☆ドラマー市原康
聖書に関する知識は、みなさん多少ともおありになるのではないかと思います。私は40年近く聖書を読み続けていますが、ここに書かれている神について、人について、神の愛について、神のご計画というものについて、読めば読むほどその概要がしっかりはっきり見えてくるようになりました。1600年にもわたって書かれた66巻の聖書の著者は、師弟関係でもないのに、そこに貫かれている一本の太い線は、1ミリたりともぶれることはないということが、ますます見えるようになってきました。
 そんなことがあり得るのは、この聖書を書かせたのが人の伝承や知恵によるのではなく、ただおひとりの神というプロデューサーが書かせたからに他ならないということを思わされます。「神を信じるなんて、あり得ない!」というあなたにこれを贈りたいと思います。

■ 聖書には何が書かれているのか 
1. 世の初めから終わりまでのストーリー
 聖書の冒頭、創世記1章1節には私たちの「当たり前」を根底からひっくり返すことばが書かれています。それは・・「神が天地万物を創られた」、ということです。しかも「初めに」です。そして天地創造の始めから終わりまで、そこには神の計画があるというのです。始めるのも終わらせるのも神ということです。「終わりの時」には地も天もあとかたもなくなり、死んだすべての者を神はよみがえらせて、いのちの書に従ってその行いに応じてさばかれる。そしてご自身のもとに帰った者たちのために、「彼らの目の涙をすっかぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。何故なら以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」・・という新天新地を実現されるというのです。「始め」から「終わり」まで、聖書にはかなり具体的なストーリーが書き記されています。

2. 旧約聖書のメシヤ預言
 旧約聖書には、メシヤ(救世主)のことが、創世記から最後の預言書までの中に絶えず出てきます。預言は後半にある16の預言書の中だけではなく、最初の五つのモーセ五書詩篇やそのほかの書物の中にも記されています。預言とは未来を言い当てる「予言」のことではなく、神から預かって民に伝えられることば「預言」です。ですから預言にはその当時のこと、主に民の悔い改めを促す預言や、そのために起こるであろう近未来の出来事、それからイスラエル民族の将来の歩み・・民族の崩壊、離散のことなど、そして来るべきメシヤ=救世主のことなど、様々な預言があります。それらはみな、神と民との関係を健全なものへと導くためでした。メシヤに関しては、誕生、また受難(十字架)、その後の復活、そして世の終わりが近づいた時の大艱難、裁き、メシヤが再び来られる時、新天新地のことなどが旧約聖書全体に散りばめるようにして出てきます。しかし厄介なことに、これらのことが時間軸に沿って書かれていれば良いのですが、イスラエル滅亡の時代の事と終わりの時のこととが入り混じって出てきたり、ひとつの記事がその両方を意味していたりするのです。だから解説なしにいきなり旧約聖書を読んでも、分かりにくいところが多いと思います。

3. 今の時のために与えられている預言
 そしてこのメシヤこそイエス・キリストであると証言しているのが新約聖書です。イエス・キリストの降臨は、旧約聖書モーセ五書や預言書に書かれている通りに実現しました。たとえば十字架の様子が克明に記されているイザヤ書 (53章など)はイエス・キリスト降誕の700年も前に書かれたものです。鎌倉時代に今のことを書いた書物があって、それが目の前で起こったという状況です。ところがイエス様が公生涯を送られた当時のユダヤ人、またその教職者たちの多くは、目の前に現れたイエス様が預言書に書かれているメシヤだとは思いませんでした。こんなにはっきり書いてあるのに・・です。そして聖書には「終わりの時」のこともはっきり書かれています。しかも今より2000年前に、あるいは3000年前に・・。私たちはそれをどのように受け止めるのでしょうか。

4. 特別な民イスラエル
 この全体のストーリーのために神は一つの民族を立て、特別な配慮の中で守られ導かれてきました。しかしそれにもかかわらず、彼らは神に背を向けて自分たちの手で作った偶像を拝むようになり、神の怒りを招き、そこで初めて悔い改めて神の赦しを頂く。そしてようやく平安と繁栄を回復したと思ったら、また背信の罪を犯す。これを何度も何度も・・どうしてそこまで繰り返せるのかというほど繰り返し、最後にはとうとう世界中にちりぢりばらばらに散らされてしまうのです。これが今も世界が注目するイスラエルの民です。本来12部族あったのですが、今ではその中で見分けがつくのはユダヤ人のみです。しかしこのことも神のご計画には織り込み済みで、しかもそれが地上のすべての民族を救うために与えられている一つのステップであると、聖書には記されているのです。

■ 神と人との関係を聖書はどのように説明しているのか
1. エデンの園の出来事 
 聖書はまず最初に、天地万物は神が造られたと宣言し、「神にあって歩む」という特別な存在として人を造られたことが記されています。ところが人の歴史が始まった途端、最初の人は神の言葉を疑うように悪魔にそそのかされ、その言葉を真に受け、神から離れて自分の考えで歩もうとするようになります。人は食べることを禁じられていた「善悪の知識の実」を食べた・・即ち善悪の知識を自分の管轄下に置くことに決めて、神に背いたのです。そしてその結果どうなったかというのが、あのエデンの園を追放されたアダムの話です。それ以来、人は善悪の判断を自分の感覚で行ない、神という存在を自分の外に置くようになってしまった・・。言い換えると「神が言われることを聞きたくない人。自分を造られた神を認めたくない人」になってしまったのです。それがエデンの園を追放されたアダムとその子孫、すなわちすべての人の姿です。エデンの園は、神にあって生きる者のために備えられたところなのに、人はそこで生きる資格を失ってしまったというわけです。さらにそこから人に「死」が入ったのだと書かれています。これも驚くべきことです。本来死はなかったの?という話です。確かにこの出来事の後に「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」と、ここで初めて土に帰る者となったことが書かれています。すなわち、死が人に入ったのだと聖書は言っているわけです。
ということは、あのエデンの園で神にあって歩んでいたそのことは、実はいのちそのものなのだということを暗示しているとも言えるわけです。

2. 神のあわれみ
人はエデンの園から追放されてしまいました。そして人と神との関係が前とは変わってしまいました。それ以来人は、生きてはいるけど「まことのいのち」からは離れてしまった・・。ところがそんなアダムと妻エバのために、神は皮の衣を作って着せて下さったと書かれています。神は、アダムとエバエデンの園から追放したものの、彼らをお見捨てになったわけではありませんでした。結局人と神との関係はどういう風になったかというと、人は神を認めずに自分の考えで歩みたいという性質を帯びながらも、神のあわれみの中で生かされる者としてその歩みを始めたということになります。これが神と人との関係の基本的な「型」で、これが神の決められたストーリーの始まりだというわけです。

3. 罪びと
 こうして人は神に背を向けてしまう罪びと、そして死を背負って歩む者として、その歩みを始めるのです。神が人を造られたのなら、神を認めようとしないのは神に対する一番の大きな罪です。そしてそこには、神の御心ではなく、感情を土台とした自分の考えに従う行動があります。人は罪を犯したから罪びとと言われるのではなくて、神から離れ、自分の考えに従って歩む罪びとだから、結局罪を犯すのです。これを証明するような出来事が次から次へと起こってきたことを聖書は記しています。アダムは罪びとの元祖というわけです。早速アダムの子カインは、弟アベルを殺します。しかも嫉妬というささいな理由で・・。これが、自分の感情の方を人の命よりも上に置いてしまうという、罪びとのあわれな姿です。 

 あの有名なバベルの塔の話は、人が天に届く塔を作って名をあげてやろうという、自分の栄光をどこまでも求める人間の話です。そこにある神不在の高慢。その高慢の極みのゆえに神の怒りを買い、互いのことばが分からなくなり、人々が地の全面に散らされてしまったという出来事です。現在サウジアラビア・ジェッダで1km超えの高層ビルの建設が始まっています。それと競うようにしてドバイでは、完成するまで高さを発表しないというビルが建設される予定だそうです。人が神から離れて求めるものは、今もバベルの塔の時代もなんら変わらない、自分の栄光です。これも罪びとの本質を象徴している出来事なのではないでしょうか。互いに話していることが通じなくなる時代・・。なんだか他人事のようには思えません。
 神がおられるなら栄光は神に帰すべきもので、崇められるべきは人ではなく、神なのです。「神」と「人」との関係・・それを一言で言えば「まことの神」と「罪びと」です。しかも、神のあわれみと愛と導きの中で生かされている「罪びと」です。

■ 神の最終目的は何なのか
1. 救出
 創世記の6章にはあの有名なノアの箱舟の話が出て来ます。神は人々の余りの悪さのゆえに、主の心にかなっていたノアとその家族だけを選び、箱舟を造らせ、ひとつがいの動物たちと共に箱舟の中に避難させます。そして神は地球規模の洪水を起こし、箱舟に入っているノアとその家族だけを救い出し、新しい歩みをはじめさせたという出来事です。ここを読むと、当時の人の世界はそれほどに、神の聖さからはほど遠い社会になっていたということが推察出来ます。罪にまみれた世界の、神によるリセットです。そこは堕落と暴虐の満ちた世界だったと書いてあります。そしてそこに生きる人々の中から、神に目を向ける者を救い出されるという・・、これは「終わりの時」を表すひとつの型です。

 聖書は人を「自分の罪の中に死んでいる者」と表現しています。またこの世についても、サタンが空中の権威を持つ支配者として存在することを神は許しておられると。そしてその霊的な力の流れの中で人々は歩んでいて、そのことにまったく気付いていないのだと言っています。そしてそこからの救いの計画・・それが聖書の大きなテーマです。(聖書・エペソ人への手紙 6章 11-12節参照) 

 黙示録には、終わりの時のことが書かれています。そしてそれは旧約聖書エゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書その他にも書かれており、またイエス様も実に多くの箇所でそのことに言及しています。イエス様が語られた「神の国」のくだりは、ほとんどがこの事と関連しています。そして驚くべき事に、この話が各書物それぞれ、書かれた時代が異なっているのに一貫しているのです。

2. サタンの正体
 さて、なぜ神はサタンという存在を許しておられるのか・・という疑問が出てきます。エデンの園にサタンがいなければ、人は神の楽園の中で永遠に喜びの中で生きられたのに・・。神は何故、悲しみと苦しみの時代を作られ、何千年もサタンという存在が関与するこの世の歴史を用意され、そして最後にふるいにかけて、選ばれた人に新天新地を用意されるというようなことをなさるのでしょうか。
今の世はサタンの思惑通りに、人は神から離れ、罪の中で苦しみ、そしてついには死という報酬が定められている・・。そんな状態が人の歴史を通してず〜っと続いているわけです。

神に仕える「天使」とか「御使い」とか言われる存在が聖書には出てきます。イエス様をみごもるはずのマリヤに現れて祝福を告げる御使いガブリエルはその代表です。聖書は天使の存在を随所で語っています。そしてもうひとつ。神に仕え、神をほめたたえるのがその大きな役割であるはずの天使が、神の栄光ではなく自らの栄光を求める者へと姿を変えてしまった存在。即ち、神が崇められることをきらい、人が神と共にあって神を喜び、神を崇め、まことのいのちの中に生きるようになることを最もいやがる存在。そして人の世を支配し、人の心の目をくらまし、神が見えないように策の限りを尽くし、罪と死と恐れの中に人を閉じ込め、互いに憎み合い殺し合うようにし、さらには人々が自分を崇めるようにする・・、これが究極の目的であるという霊的な存在。そのような存在が実際にあって、聖書ではそれをサタンとか悪魔とかいう言葉で表現しています。そしてこのサタンはこの世の最後の時まであがき続け、そして最後には火の池に投げ込まれて永遠に苦しみを受けると書かれています。

3. 人の尊厳
 どうして神はこんなストーリーを作られたのか・・。その答えは聖書には書いてありません。神はこういう状態の中から人々を救い出し、まことのいのちである神のところに帰らせる・・というところまでしか書かれていないのです。
 そこで私の頭に浮かぶのはこんなことです。もしサタンがいなくて、人がエデンの園で増え広がったとしたら・・。神は人に、ひとつだけ生きるための条件を教えました。人は善悪の知識の木の実さえ食べなければ神と共に生きる者でいられたのです。平安の中で、永遠に・・です。私は、犬のあの表情を変えない幸せ感というか・・あれが大好きです。自分が与えられた環境を素直に受け入れ、とにかく主人を喜ぶ。人がいつもこのようでいられたら、かなり幸せなんじゃないかと思います。エデンの園のことを思い浮かべると、私はそんなアダムの幸せな姿が目に浮かんできてしまいます。
 ところで、神はそういう幸せの中に人を置くことだけを目的としてアダムを作られたのでしょうか。聖書には、神は人を「ご自身のかたちとして創造された」と書いてあります。動物とは基本的に違うもの、神のかたちに作られたと書かれています。神は人を、ただ素直に喜びすべてを受け入れる生活を続ける者というだけでなく・・実はそれも難しいことなのですが、さらにそれ以上の、意志と尊厳を持ち、創造的な活動をする存在として、そして何よりも神を知るべき者として人を作られたのではないでしょうか。

4. 神のご計画の骨子
ここでもう一度、神のご計画の始めから終わりまでをざっと見てみますと・・。神が天地万物を造り、人にエデンの園という、神と共に生きる理想郷を与えたあと、アダムはエデンから追放され、皮の衣を与えられた。後に人は増え広がり、神は「わたしが神である」と、アブラハムに始まりイスラエルの民に、ずっと言い続けて来られました。それにもかかわらず、彼らは神を受け入れきれず、結局警告されていた通りの呪いを受け取り、外国に攻め込まれて捕囚の身となり、最後には世界中にちりぢりばらばらになるという道を選択してしまいます。それと重なるようにして、神はメシヤ=御子イエス・キリストを世に送られ、「選民」イスラエルだけではなく「すべての国民、民族」の救いの用意をされた・・。それからイエス・キリストによる救いが全世界に宣べ伝えられ、現在に至っている・・。ただし、キリストによる救いの知らせが世界中に宣べ伝えられたと言っても、この世がサタンの支配から解放されたということではありません。救いとは、罪と死とこの世を支配するサタンからの個人的な解放、そして帰れなくなっていた父なる神のみもとに戻ることです。それはイエス・キリストによって実現しました。しかし、神のご計画にはまだこのあと、後半があります。
 1948年、突然イスラエルが国として復活しました。そしてこのイスラエルに位置するハルマゲドンが、悪魔が捕らえられ底知れぬところに投げ込まれるという出来事の舞台になると、黙示録にあります。(20:2-3) 神は最後の段取りまで、特に終わりの時の様子を克明に示されています。その舞台である「イスラエル」が1948年に突然現れたわけです。が、まだ神殿が現れていません。あのエルサレムの神殿跡の金色の岩のドームと言われているところが本来の神殿があるべき場所です。現在のドームはイスラムの礼拝場です。ここに神殿が再建されること、そこに「荒らす憎むべき者」が立ち、自らの偶像をそこに据え、神殿を汚すという出来事が起こると書いてあります。またその前後に起こる大艱難のこと、またイエス様を信じる者が空中に引き上げられること、過去の死者がよみがえること、最後の天地の滅びの前に出現する千年王国のことなど・・。目まぐるしいほどの出来事が預言を通して語られています。この一見とりとめもないことが、過去の預言書や新約聖書のイエス様のことば、そして黙示録に出てくるのですが、そのすべてが矛盾なく読めるというのです。そしてこの最後の舞台に再びやって来られるのがイエス・キリストです。最終的には選ばれた民のために、今の天と地とは消え失せ、天のエルサレムが用意される・・というのです。

5. 神の恵み
 こうして見てくると、神は尊厳を持つ者として造られた「人」を、サタンが支配する過酷なこの世に置き、その中から神の国にふさわしい者を選び出すという流れが見えてきます。
神の国にふさわしい者?・・私なんかは絶対ダメだ、というのが普通の反応かも知れません。でもイエス・キリストは、そのふさわしくない者が神の国に入るために来られたというのです。大体ふさわしい者など、初めからひとりもいないと聖書は言っています。そのような私たちがただイエス・キリストを救い主と信じるということだけで、ふさわしくない者がふさわしい者になるというのです。神のなさることは人知をはるかに超えています。ふさわしくない者がふさわしい者として取り扱われるのです。そんなこと、この世の社会ではあり得ないことです。でも実は、神の恵みと愛を理解するポイントが、そして「愛し、許す者」と変えられるポイントがここにあるのです。

6. 狭い門
 イエス・キリストを救い主として信じる・・また、神を神として認める・・。これは、罪びとが最も不得意とするところです。では、この世の人々が神を認めるとしたら、それはどういう時なのでしょうか。聖書にこんなことばがあります。
 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。・・詩篇51篇17節 
 心砕かれた者・・。これが神の側に立ち返る者となるための「私たちの側の条件」のようです。イエス様は次のように言われました。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。・・マタイによる福音書 7章13節

狭い門から入りなさいと言われています。狭いというのは入りにくいという意味です。神を認めるというのは、罪びとにとってはとてもやりにくいことです。求められているのはいとも簡単なことで、ただ鍵をそのまま受け取るということだけです。ところがそれだけは絶対にやりたくないと思う・・。その裏には、自分が神の前になにか差し出すことのできるものを持っているという思いがあるわけです。実態は何物も持ち得ない者であって、全てをただ神の恵みによっていただいている者であることに全く気づいていない・・これが罪びとの姿です。
プライドという言葉が思い浮かびます。「プライド」には何の根拠もないのです。このところ、「日本人としてのプライド」という言葉を頻繁に聞くようになりました。「あの時代」に持っていた日本人のプライドを取り戻そうという動きです。そして世界は戦争へと向かっている。プライド・・、それは自尊心であり、それにつながることばに国益という言葉があります。それは最終的に自分が生き残るという道を選択させるものです。自尊心とはもともと悪い言葉ではないと思います。本当の自尊心は「神に愛されている者」として自分を理解するところに健全な自尊心があると思うのです。神に愛されているという認識から来る自尊心ならば、他の人もすべて神に愛されている者であるというところに立つことができるからです。しかしプライドというものは自己を支えるものではあっても、他者が喜ぶようなものではないということは、少し冷静になればわかるのではないでしょうか。
 広い門とはこのプライドを残した門であって、その行く先は「戦い」であって、イエス様はそれを「滅びに至る門」だと言われているわけです。しかも、そこから入る者が多いとイエス様は言われました。プライドとはすなわち、神を認めない心なのです。

 上記の詩篇では、砕かれた、悔いた心こそ、神が認めてくださるものだと言っています。悔いるということは、自分に何か残念なことがあったということです。自分に残念なことがあって、そして心が、プライドが、自尊心が砕かれる・・。ああオレは完全にダメだと思うようなことがあったら、それは光の門への入り口かもしれません。
 もともと罪の支配の中に生きている者は、自分を堅い殻で守り、自分を外から攻め入られないように自分の力で守っているというのが、その姿勢の基本です。ですから勿論、それを自分で打ち破るなどという発想は出てきません。また何かの出来事を通して一度二度、それが砕かれるようなことがあっても、罪びとの殻というのはすぐに蘇生してしまうのです。
 その硬い殻にくさびを打ち込み、ついには完全に打ち砕いてしまったのが、あのイエス・キリストの十字架の姿です。あれは私たち罪びとのためになされたところの、私たちの代わりに完全に砕かれた・・その姿です。そして神は、私たちがそれを自分のものとして受け取ることが出来るようにしてくださったのです。

 狭い門・・、それは神が用意して下さったこの「完全に砕かれた肉と、死からよみがえったいのち」を無償で受け取る勇気を持つこと、と言えるのではないでしょうか。私たちにはそれ以外にこの門を通る資格はどのようにしても得られないのです。それを聖書では「信仰による義」と表現されています。すなわち、行いの報酬としてではなく、ただ信じて、この救いを信仰によって受け取ることによってのみ、義(神の前に正しい者)とされる、と言っているのです。何かやったから正しいということもないし、悪いことをしたから資格がないというのでもありません。これはもともと資格のない者を「正しい」とされる神の驚くべき方法であり、私たちはそれでしか正しいとされるチャンスなど、他にはないということです。それに対して支払われた代価は、神の御子のいのちなのであって、私たちが支払うにはあまりに高価すぎて、なんとかできるようなシロモノではないのです。

7. 神の最終目的
 それは、罪の殻の中でどうにも動きが取れなかった罪びとが、神が遣わされた御子による私たちの身代わりとしてのあがない・・すなわち、十字架の死とよみがえりのいのちそのものを受け取る事で、罪と死から解放されて、まことの父である神の元に帰ること。それがまことのいのちの意味であり、そのいのちにあって、父なる神を霊とまことを持って礼拝し、崇め、喜び、そのいのちに浸り、なんの陰りもない光と喜びの中に生きる人となる・・。これこそが、天の父なる神がお造りになりたい神の国の国民の姿であり、そこから引きずり下ろそうとする悪の力が働く余地の全くない神の国、新しい天と新しい地・・そのことの実現こそが神の最終目的ということになりそうです。そう考えるとこの始めから終わりまでのストーリーは、人がそういう者に変えられるために用意された舞台だったということになるのかも知れません。

エス様は言われました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。・・ヨハネ福音書 10章 7節
エス・キリストご自身がまことの門だと、イエス様がご自分で語られたのです。もう一度書きますが、イエス・キリストという存在自体が「門」で、ここが神のもとへの唯一の入口だということです。
 羊・・それはどこが自分の本当の家なのかが分からなく、暗闇をさまよっている「迷える小羊」のことです。この迷える小羊のために、神がひとり子のいのちを与えてくださった・・。
これが神の愛のストーリーです。そしてこれが聖書全体を通して語られていることなのです。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ福音書 3章16節

それにしても、聖書は霊の目をもって読まなければ何も開けてこない、何も見えてこない、これはやはり神のことばなのだなあと思わされます。そしてもしあなたがそれを読み始めたのなら、そのこと自体が既に神の奇跡の始まりなのだと思います。なぜなら、すべての人は、神のことばを絶対に受け取ろうとしない罪びとなのですから。

★市原兄の活動のために祈ります。