「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開⑧☆第二十一話 愛し合いなさい(ヨハネによる福音書 第十五章一二〜一七)

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開⑧☆第二十一話 愛し合いなさい(ヨハネによる福音書 第十五章一二〜一七)


第二十一話 愛し合いなさい(ヨハネによる福音書 第十五章一二〜一七)
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

みなさんは、日曜日の朝が来ると、「さあ、教会へ行こう」って思いますか。そうして、喜んでお家を出てくるでしょうか。冷たい風の日も、頑張って教会へやってくる自分は、いったい、なぜ、教会へ来るようになったのかなあって、思ってみたことありますか。教会に来るようになった理由は、いろいろと、人それぞれあるでしょう。お友だちに誘われたからとか、お家の人がクリスチャンだからとか、学校がキリスト教の学校だったからと、いろいろの理由があるでしょう。

ところが、イエスさまの十二人の弟子たちも、どうしてイエスさまの弟子になったのかなあと、聖書を読んでみますとその理由はいろいろです。たとえば、ペテロさんは、ガリラヤの湖でお魚をとろうとしていたところ、ひょっこりと、イエスさまに出会ったからだって思うかもしれません。聖書にはそのようにペテロさんが思いましたとは書いてありませんが、弟子たちは、イエスさまに出会ったのが、もう、だいぶ前のことになりますから、なぜ、イエスさまの弟子になったのか忘れかけていたことでしょう。弟子であるのは当たり前のこと、わたしたちも教会へ来て聖書のお話を聴くのは当たり前のこと、と思えませんか。

ところが、イエスさまは、弟子たちとお夕食をいただいた、「最後の晩餐」の時に、もう一度はっきりと、あることを弟子たちに思い出させてくれるのです。それはイエスさまが十字架につけられる前の晩のことでした。
「わたしが、あなたがたを選んだのですよ」ということです。
エスさまは神さまのみ子です。お父さまでいらっしゃる神さまが、「さあ、わたしの言葉を持って行ってらっしゃい」と、イエスさまを、わたしたちのこの世界に送り出したのです。神さまからつかわされたイエスさまが、「あなた方を選んで、弟子にしたのだよ」と、おっしゃったのです。神さまのみ子、イエスさまが、神さまの思いがおありになって、弟子たちを選び出してくださったのです。これは、大変驚くほどうれしいことです。

わたしたちも、毎週イエスさまの「日」の日曜日に教会へ来て、お祈りをささげ、聖書の中から神さまのお言葉を聴きますが、実は、イエスさまがお話になっていらっしゃるように神さまの思いがあって、神さまに呼ばれているのです。

では、神さまの思い、イエスさまの思いとはいったい、どのようなことなのでしょうね。それは、今朝の聖書のはじめに書かれてあるイエスさまの戒めです。戒めとは、モーセ十戒、十の戒めを聞いたことがありましたが、神さまが命じられる、人間とのお約束です。
エスさまの戒めはどうかと言いますと、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということです。みんなお互いに愛し合ってください、という思いが、神さまからの思いなのです。お互いに大切にしあって、仲良く生きてくださいということです。みんなイエスさまから選ばれた人たちです。選ばれたという大きな喜びを思いますと、みんな、お互いに大切にしあって、生きなくてはなりません。みんなが、イエスさまのおっしゃる、お互いを思いやる「愛」をもって生きれば、この世の中から、喧嘩や仲間はずれや意地悪はなくなるでしょうね。苦しんでいる人や、困っている人を助けてあげるという勇気も湧いてくることでしょう。それがほんとうの優しさですし、正しさなのだと思います。

それで、イエスさまの「戒め」を守って生きるなら、その人のことを、イエスさまは「友」と呼ぼうとお約束してくださいました。つまり、ほんとうのお友だちと読んであげようとおっしゃったのです。召使いとかしもべと呼ぶのではなく、お友だちにしてあげようと言いました。召使いとかしもべは、雇われて働かされている人のことです。神のみ子、イエスさまが「お友だち」とは、何と言ったらよいのでしょう。神さまが「お友だち」などとは人間には考えられないほどのことですものね。しかも、そのイエスさまのお友だちにしていただいた弟子たちは、イエスさまが一番辛いときにイエスさまのことを忘れてしまうのです。裏切ってしまうのです。そんな、言ってみれば罪深い弟子たちのために、身代わりになってイエスさまは十字架の上で命をお捨てになったのでした。

みなさんも、教会へ神さまのみ子イエスさまを拝みにこうして日曜日にまいりますから、イエスさまに愛されている子供です。みんな神さまの子供です。
こどもさんびかの四番に、
「わたしたちは、主イエスの子供」という歌があるとおりです。わたしたちもみんなイエスさまのもとへいらっしゃいと招かれているのです。お互いに愛し合い、仲良く生きていきなさいとおっしゃっているのです。

エスさまが十字架にかかって死なれたということは、「友」の身代わりになって死んでいかれたということです。これほどお優しい、深い「愛」はイエスさまだけがもっていらっしゃる「愛」なのです。ですからこの「愛」のことを「神さまの愛」と呼んで人間の愛とは区別します。わたしたちはイエスさまの尊い大きな、「十字架の上に現れた愛」を思い出すたびに、そうだわたしたちもイエスさまの「愛」のように、お互いを大切に、愛し合って生活しましょうと思うのです。「わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」このイエスさまのみ言葉を心に刻みましょう。

主なる神さま。
わたしたちがお互いに愛し、愛されるために、神さまによって愛されて、教会学校に招かれていますことを感謝いたします。どうか、わたしたちが神さまを愛し、また、お友だちを大切にできる子供にしてください。主・イエス・キリストによって、アーメン。
一九八八・二・二一