「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開⑦☆第二十話 イエスはまことのブドウの木(ヨハネによる福音書 第十五章一〜一一)

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開⑦☆第二十話 イエスはまことのブドウの木(ヨハネによる福音書 第十五章一〜一一)

第二十話 イエスはまことのブドウの木(ヨハネによる福音書 第十五章一〜一一)
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かな実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

今朝の聖書の言葉のはじまりは、なんと言っていますでしょうか。
「わたしはまことのぶどうの木」と、言っておられますね。イエスさまは、ご自分のことを、ぶどうの木にたとえられました。イエスさまという、ぶどうの木を植えたのは誰かと言いますと、イエスさまのお父さまです、と言われたのです。イエスさまのお父さまは、〝父なる神さま〟です。イエスさまはなぜご自分のことを、ぶどうの木にたとえてお話をなさったのでしょうか。

みなさんは、ぶどうを食べたことがあるでしょう。ぶどうが好きですか、甘いぶどうなら好きですよね。酸っぱいぶどうだったりしたら、「もう、いらないよ」と、そっぽを向いてしまうかもしれませんね。どうして、甘いおいしいぶどうと酸っぱいぶどうがあるのでしょうね。
むかし、わたしが住んでいました近所に、大きなぶどうの木がありました。夏になりますと、ぶどう棚から、緑色のぶどうの房が下がります。しだいに、緑色から紫がかってきて、見た目にはおいしそうなぶどうの実に思えるのです。ぶどう棚のしげみの中から虫の声が、それは美しく、涼しそうに聞こえてくるのです。でも、だれひとり、そのぶどうの実を取って食べようとする人はいませんでした。どうしてかと、その近くに住んでいる人に尋ねましたら、とても酸っぱいのだそうです。食べられるような良い実ではないのだそうです。どうして良い実がならないのかしらと、不思議に思いました。見るからに立派な実がなるのにです。

それからだいぶ時間がたってから、その理由が少し分かってきました。そのぶどうの木は、ただ無造作に植えられただけなのです。手入れもされないで、育つがままにほったらかしにされている木だったのです。おいしくて、甘いぶどうの実をつけるには、たいへん心をこめた手入れが必要だったのです。土はぶどうが育つのに良い土であること、余分な葉や枝は良く刈り込まれ、太陽の光が十分に当たるようにしてあげることも大切です。心をこめて、ぶどうの木を可愛がって、よく面倒をみてあげないといけません。植えた人の、ぶどうの木に寄せる深い愛情があって、はじめて、本当のぶどうの木が育ちます。そして、ほんとうのぶどうの木だけが、甘くておいしい本当の実をつけるということだったのです。

ただ植えられて、ほったらかしにされ、思いのままに枝を張り、葉をしげらせほうだいにした、ぶどうの木には酸っぱい実しか成らないのですね。秋も終わるころ、酸っぱいぶどうの木は、かわいそうに、枝も実も刈られて、たき火にされてしまいました。

けれども、愛情がいっぱい込められて、手入れがいきとどいたぶどうの木の実は、おおぜいの子どもたちを喜ばせました。その実を食べた子どもたちはみな、幸せな思いになったことでしょう。甘いぶどうの汁が口いっぱいにあふれるからです。

さて、イエスさまがなさいました、ぶどうの木にお話にもどりましょう。「わたしはまことのぶどうの木」と、イエスさまが十二人の弟子たちにお話なさいました。イエスさまというぶどうの木は、甘い、おいしい実をつけます。なぜなら、木を植えられた方がイエスさまのお父さま、神さまだからです。イエスさまをとおして、わたしたちが見ることのできる神さまは、おやさしく、いつくしみ深い、愛のお方です。その神さまの光に照らされて、お育ちになられたイエスさまというぶどうの木は、どの人々にも喜びが満ちあふれるような、ほんもののぶどうの実を結びます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と、イエスさまがおっしゃいました。わたしたちもまた、イエスさまという豊かな実をつけた、ぶどうの木につながっているならば、イエスさまの大きな愛によって、いつしか、豊かな実を成らせていただけるでしょう。「その人は豊かに実を結ぶ」と、イエスさまがおっしゃっておられるからです。
わたしたちが、イエスさまを知れば知るほど、わたしたちの生き方は、イエスさまの豊かさ、本当の豊かさへと導かれていくでしょう。
一九九一・二・一〇