「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開⑤☆第十八話 隣人(ルカによる福音書 第十章二五〜三七)

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開⑤☆第十八話 隣人(ルカによる福音書 第十章二五〜三七)

☆第十八話 隣人(ルカによる福音書 第十章二五〜三七)
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

わたしたちは、日曜日になりますと教会で神さまのお話を聞いたり、イエスさまが神の子として、どのようにこの世の人びとに働きかけてくださったか、今も、このしもべ、このわたくしにどのように関わってくださっているのか、そのようなことを学んでいます。

「学ぶ」と言いましたが、教会学校で「学ぶ」というのは、ただ、頭の中に知識として暗記するだけで、「知っているよ、そのお話なら」と言うようなものではありません。聖書のお話を聞いて、いつか本当の信仰へと成長していくものでありたいと、願っています。

今朝の聖書の「善いサマリア人」のお話の出だしですが、律法の専門家がイエスさまを試そうとして、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、たずねました。「永遠の命を欲しい」と、律法の専門家は望んで聖書を熱心に読んでいた人のようです。「なにをしたら、永遠の命を神さまから頂くことができるでしょうか。」
すると、イエスさまは「何をしなさい」とは直接にお答えにならず、「聖書には何と書いてあるか。それを、どのように読んでいるのか」と、逆に律法の専門家を試します。聖書をどのように読むのかということは、わたくしたちにも大変大切な問題だと思います。律法の専門家はすかさず答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と、あります。」「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とイエスさまはおっしゃいました。

けれども、律法の専門家は、正しい答えを出せるほど聖書のことはよく知っていましたから、自分は、神さまを心から愛することも、隣人にあたるお友達をもみんな愛していると、自信をもって思いこんでいました。ですから、イエスさまに「実行しなさい。」などとあらためて言われるのは不満でした。「実行しなさい」と言われるなら、いったい、そのほかに隣人とは誰かいるのですかと、反発したい気持ちで聞き返しました。

じっさい、わたしたちも自分と仲良しの人、家族ですとか親類の人、自分が気に入る人なら隣人として認めてもよい気がします。
エスさまは、わたくしたちにも、「聖書の中の隣人ということを、どのように読むか」とおたずねになっているのです。信仰をもって読むとどのように理解するのでしょうか。それで、イエスさまのお話がはじまります。

エルサレムからエリコの町へ続く道は険しく寂しい道でした。強盗や、人をだまして連れていってしまう悪い人が出るような道でした。その道に、一人の人が死んだようになって倒れていました。その人は強盗に襲われて衣服もはぎとられ、殴られて傷ついていました。そこへ、神殿で神さまにお仕えしている祭司が通りかかりました。礼拝を終えて自分の家へ帰る途中でした。祭司は倒れている人をひと目見ると、道の向こう側へとはなれて行ってしまいました。次ぎに、レビ人という、やはり神殿のお手伝いをしている人が通りかかりましたが、その人も倒れている人のそばまでやって来て見るだけで、声もかけずに道の向こう側に行ってしまいました。祭司もレビ人も、神さまに関係の深い人たちですから、きっと、「助けようか、どうしようか」と、大変に迷ったでしょうと思います。でも、この時代、旧約聖書の律法には、死人にさわると汚れるということが書いてありましたから、律法を文字どおり守ることを第一に考えて、これらの人たちは知らないふりをして通り過ぎたのだと思います。

三番目に、行商の旅をしていたサマリア人が通りかかりました。サマリア人ユダヤ人の祭司やレビ人たちから嫌われていました。イエスさまに、「隣人とはだれですか」と聞き返した律法の専門家もサマリア人をさげすんでいましたから、イエスさまのお話の中にいよいよ登場してきたサマリア人はきっと、もっとひどい態度をとるにちがいないと、ワクワクして聞いていたかも知れません。ところがどうでしょう。

エスさまのお話のサマリア人は、ひん死の人を見ると憐れに思い、自分の持ち物のありったけを利用して傷の手当てをし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って介抱したのです。そして、翌日になると、二日分のお給料に当たるお金を宿屋の主人にわたして、この傷ついている人の介抱を頼んでいきました。もしも、お金が足りなければ、旅の帰りがけに払いましょうとさえ約束しました。

このサマリア人のお話をし終わってイエスさまは、なぞなぞのように、律法の専門家にたずねました。「祭司、レビ人、サマリア人の三人のうちで、だれが強盗におそわれた人のために隣人になったと思うか。」傷ついて倒れていた人にとって、だれが善いお友達になったのでしょうか。答えは、サマリア人ですね。
エスさまのお考えでは、「わたしの隣人とはだれだろうか」ではなくて、「傷ついている人にとって、あなたは善い隣人になっただろうか」という、問いかけなのです。それにお答えするのには、わたしたち一人一人がよい隣人であるためには、自分中心の思いや常識的な努力だけでは、決してなれません。
こども讃美歌三〇番の二番には、
「友なきものの友となりて
心くだきし、この人を見よ」
と、歌っています。この人とはイエスさまのことです。
エスさまを心の目で見つづけるのです。そのとき、わたしたちもまた善いサマリア人のように、神さまのみ心にお答えしていくことが、赦されているのではないでしょうか。

主なる神さま。
あなたは、わたくしたちに永遠の命をくださろうと、み子イエスさまをこの世にお遣わしになりました。イエスさまをわたしたちに知らせてくださいましたことを感謝いたします。この恵みがなににもすぐれる恵みだと、わたくしたちが悟る日をもたらせてください。アーメン。
一九八九・七・三〇