「このときのため」(エステル4:14)−2014年4月、クリスチャントゥデイの働きに参与するための備えーその1

「このときのため」(エステル4:14)−2014年4月、クリスチャントゥデイの働きに参与するための備えーその1

★2014年4月、クリスチャントゥデイでの働きに参与し、それなりの苦悩に直面し、同時に深い喜びを味わっています。
覚悟をもって、この歩みを踏み進めていく中で、かなり早い段階から私の心に深く印象付けられたのは、モルデカイがエステルに語った、「このときのため」(エステル4:14)の重ね読みです。

日本クリスチャン・カレッジの1年生の時に、説教者としての使命を与えられていると自覚して以来、私なりに受けてきた、全ての教育は説教者として整えられるためと理解してきました。そしてその自覚の下に歩んできたすべての経験は、今、クリスチャントゥデイの編集長の役割を果たすこの時のためと受け止めているのです。
 そうです。説教者であり、同時にクリスチャントゥデイの編集長である。聖書をメガネに万物を認識し記述する、その証言が新たな恵みの事実を生み出す。このクリスチャントゥデイの編集長の働きを、説教者として営んでいると受け止めています。

この視点に立つと、以前に書いた、「この四十年―日本福音主義神学会の一員として」(福音主義神学』40周年記念号寄稿)は、そのまま、クリスチャントゥデイの働きに参与するための備えになるのです。

「この40年、−日本福音主義神学会の一員として−」①
(『福音主義神学』40周年記念号寄稿)
 宮村武夫

[1]序
 1970年からの40年の歩みは、まさに神の恵み。「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(Ⅰコリント15章10節)との信仰告白に声と心を合わせます。日本福音主義神学会の一員として、「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1章16節)のです。ですから、「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)の呼びかけに応答して小さな神の恵みの神学の序曲を奏で、小文を紡ぎたいのです。
 
(1)設立総会出席
1970年、東京の練馬バプテスト教会で開かれた日本福音主義神学会の設立式に、一番若い世代の一人として、恩師渡邉公平先生と連れ立って参加しました。あの時の出席者で、現役の会員は、今や幾人おられるでしょうか。
年月の流れの中ですべてを忘れ去る可能性が高い私たちの状況の中で、今回の記念号を企画実行なさる、本誌の編集担当の方々に敬意を払います。
 
(2)1986年4月東京から沖縄、東部部会から西部部会へ
 日本福音主義神学会の一員としての歩みは、大きく二分できます。
1986年4月東京から沖縄への移住を境に、それ以前・ビフォ−とそれ以後・アフタ−です。
生まれ育った東京から沖縄への移住後25年、西部部会の「主のしもべ仲間」(黙示録22章7,8節)と主にある交わりを深める楽しい恵みの経験を重ねて来ました、感謝。
 
[2]1970年―1986年、関東部会
(1)説教者としての自覚と実践
1958年、日本クリスチャン・カレッヂ1年生の秋、アメリカからのジーンズ宣教師とカナダからのプライス宣教師、両婦人宣教師が埼玉県寄居で開拓伝道を開始した第一歩から、私はお手伝。生まれたばかりの寄居キリスト福音教会で毎週主日礼拝説教を担当、十代の説教者の卵の誕生です。その時からカレッヂでの3年半、二人の婦人宣教師の深い祈りに支えられ説教を継続し、小さな主にある群れが成長する中で私自身も育てられ、カレッヂ卒業後、寄居キリスト福音教会の初代の牧師に招かれ着任しました。
小さな交わりは、みことばを中心とする素朴なもので、危なっかしい初陣の説教を深い祈りをもって毎週聞き続けてくださいました。この50年余の年月を貫いて、今も、最初の説教を覚えていると折に触れ私を励ましてくださるあの方この方がいます。
確かに、説教者また説教者の妻としての道の基盤は、1958年からの年月、あの寄居で主の一方的な恵みにより、主にある兄姉との堅い信頼の絆の中で据えられたのです。(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』、ヨベル、2009、3〜4頁)。

1967年10月1日、4年間の留学中待ち続けてくれた寄居キリスト福音教会に、私は戻ることが出来ました。1965年4月12日に結婚式をあげた妻君代と生後2箇月の長男忍望と共に。迎える側も、迎えられる側も、ひたすら喜びに満たされた恵みの時でした。
 小さな群れは『月報』の発行など一つ一つの出来事を通し、主にある信頼関係をますます深めて行くさなか、思いを越えた事態に直面したのです。
青梅キリスト教会の後任牧師の必要が生じ、小さな日本新約教団常議会は牧師移動の苦渋の決断・選択をなし実行。当時、寄居に留まることを強く望んでいた君代個人の望みや4間待ち続けた方々の思いを越えて、1970年4月から、青梅キリスト教会牧師また前年に設立されたもみの木幼児園園長として、私は歩み出したのです。

(2)『礼拝の生活』
 1970年は、埼玉の寄居から都下の青梅へ私ども家族が移住した年であり、私の青梅キリスト教会牧師としての歩みと日本福音主義神学会の一員としてのそれとは、こうして時期的にまったく重なります。

①礼拝と生活ではなく、礼拝の生活
青梅キリスト教会移住直後から、複数の人々の協力で、毎週謄写版印刷の『礼拝の生活』を原則として毎週発行。礼拝と生活の二本建てではない。礼拝しつつの生活、生活のただなかでの礼拝、まさに礼拝の生活だと確認しつつ、1970年から1986年にいたる営みでした。

②東京キリスト教短期大学、東京基督神学校日本女子大学
 1969年4月から東京キリスト教短期大学で、続いて1972年から東京基督神学校で、さらに1978年から日本女子大学で授業を担当するようになりました。
すべての授業・講義を、神のことばの説教者として担当してきた事実を今にして覚えるのです。二足の草鞋(わらじ)を履くのではない。教会の講壇で説教しないことを、教室の教壇で語ることはないと公言してきました。
ですから、『礼拝の生活』では、青梅キリスト教会での説教と直接結びつく文章を書き続けたばかりではなく、神学校と大学での講義の内容も直接または間接に記述しました。
また「説教がより整えられることを目的とし、説教の充実を目ざす実践的目的のために書」いた、そば屋のてんぷら的論文(「そば屋のてんぷら、アルファとオメガ」著作集5『神から人へ・人から神へ』、ヨベル、2010)をはじめ幾つかの著作を含め著述一切の種は、『礼拝の生活』の畑に蒔かれたものであり、それなりの収穫なのです。

(3)「・・・つつの恵み」
1970年代と80年代、東京キリスト教短期大学で聖書解釈の授業を担当していた際、毎年授業で紹介してきた文章があります。他の二つの神学校でも、同様に紹介しました。
 それは、『キリスト教綱要』の序文・「ジャン・カルヴァンより読者の皆さんに」の最後で、カルヴァン(1509〜1564)がアウグステイヌス(354〜430)の書簡から引用している、以下の文章です。
  「わたしは進歩しつつ書き
   書きつつ進歩する人の一人であることを告白する」。
ここに、「・・・つつ」の恵みの実例とその実践の継承を見ます。
あのアウグスティヌスにして、一度にすべてではない。唯一つの道、それは「・・・つつ」の道であると教えられます。
私どもとカルヴァンの間に横たわる世紀の隔たりに倍するほどの時の隔たりを越えて、カルヴァンアウグスティヌスに少しも気後れすることなく、今、ここで「・・・つつ」の道をひたすらに歩むのです。今16世紀に生きる責任と特権は、あの偉大なアウグスティヌスではなく、この小さき私・カルヴァンに委ねられた使命である恵みの事実に心満たされながら。
 そして今、21世紀に生きる苦しみと喜びは、あのアウグスティヌスでも、カルヴァンでもなく、なんと、なんとこの小さき私たちそれぞれに委ねられている、神のユ−モア!

(4)日本女子大学での授業
教会でも神学校でもない、普通の場で聖書を語り続ける喜び、その事実の意味深さについて深まる確信。思えば、日本女子大学の授業が一つの原点です。渡邉公平先生の定年ご退職後を引き継ぐ形で、日本女子大学英文科の講座『聖書』を、1978年4月より担当。聖書そのものを率直に伝達すれば、彼女たちは「尊いアダム・エバ・人間」であすから、確かにしっかり受け止め応答してくれる、毎回試験答案を読むのがなんとも喜びでした。

当時英文科の教授であった新井明先生は、以下のように記してくださっています。
「・・・それまでは英文学科の渡邊清子教授のご夫君にあたる渡邊公平牧師がその科目の担当者であられた。同牧師が定年でお辞めになるに及んで、・・・そのときに公平牧師先生の愛弟子のお方が来てくださることになったと聞いた。そのお方が宮村武夫先生であった。よかった! と思ったことであった。・・・先生は生き生きとした授業をしてくださり、学生たちに深い影響をとどめた。(学生たちの様子から、それが分かった。)ことばとしての欽定英訳聖書の面白さは当然として、それがもつ迫力を若い世代に訴えてくださった。その結果、やがては教会に通う身となる若者たちが生まれてきた。その講義は一九八五年度までつづけられた。学園にとっては恵まれた八年であった。」(宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』巻頭言)。
 学生方の幾人かとは、今でも幸な交流を続けています、その一人の姉妹のことば。
「英文科の授業を、教育学科の私は、単位とは無関係に2年間伺いました。
先生のお話は緻密で丁寧でした。第一コリント12章の箇所で、『あの人の目にとても惹かれたという話は聞きますが、耳に惹かれたということは聞いたことがありません。』という先生の真面目な冗談に、学生たちが遠慮がちに笑っていました。
友人の一人が「先生が、『本当に神様がいる』と思っておられることは感じる」と言っていたこともあります。・・・
宮村先生と私たちの聖研の交流は、先生が女子大をお辞めになられてから現在までもずっと続いています。」