書き手である前に、読み手として

書き手である前に、読み手として

1年前に、以下のように書きました。「クリスチャントゥデイの記事を読むことは、現在の私にとっては大切な学びの機会です。本記事は、その好例の一つで、読み飛ばすのでも読み流すのでもなく、線を引いたり、書き込みをしたり、かなりの時間を注いで熟読しました。
 その労は豊かに報いられたと感謝しています。これだけの記事の内容をしっかり受け止めることができたのは、専門書などを読むのではなく、新聞記事として読めたからであると理解します。クリスチャントゥデイの役割の一つが、専門書で取り扱う内容とレベルを、新聞記事特有の事実に基づく明快さで伝えることにあると理解し、本記事(歴史の教訓を再考する 第12回南原繁シンポジウム「南原繁と戦争」開催)を喜びます」。
1年後の現在、この傾向は、ますますです。書き手である前に、読み手としての充実を願っています。

★歴史の教訓を再考する 第12回南原繁シンポジウム「南原繁と戦争」開催
記者 : 坂本直子


南原繁研究会が主催する「第12回南原繁シンポジウム」が3日、学士会館(東京都千代田区)で開催された。戦後70年に当たる今年は、先の大戦の経験の中から記憶しておくべき歴史の教訓を再考することを意図し、「南原繁と戦争―日中戦争・太平洋戦争からの教訓―」をテーマとして講演会およびパネルディスカッションが行われた。集まった約230人と共に議論を交わした。

この日の講演会に招かれたのは、日本近現代史を専門とし、先の戦争に関する多くの優れた著書がある東京大学教授の加藤陽子氏。加藤氏は、「南原繁と太平洋戦争―終戦のかたちと天皇の地位を中心に」というテーマで語った。この日加藤氏は、「日本軍の武装解除と復員が順調に進んだのはなぜか」「終戦直前の天皇・軍隊・国民の関係性はどうなっていたのか」ということを、戦争最終盤で連合軍側が出した無条件降伏を受け入れる過程を通して再考し、その中で日本人が持つ天皇観が一般日本兵を降伏させるのに重要な役割を果たしたことを明らかにした。

まず加藤氏は、戦争終盤において、ポツダム宣言の4条件(国体護持[ごじ]、自主的武装解除、自主的戦犯処罰、保障占領拒否)の受託について閣内での対立があったことを述べ、その中で、新しい資料である東条英機元首相の手記より、東条が「国体護持が保証されるのは、日本に陸海軍の武装があるからだ」という論理で、自主的な武装解除は絶対に譲れないと天皇を最後まで脅していたことを伝えた。

天皇もまた、無条件降伏に当たりその意味を知りながらも、1945年の5月ごろまで全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れないとし、「それをやるようなら最後まで戦う」と言っていた。このことについて加藤氏は、この時の天皇の心情として「長い年月をかけて陸海軍との慣れ親しんできた歴史と記憶が刻まれていて、彼らを戦争責任者として引き渡すことは倫理に関わることだった」と説明した。

一方、連合軍側においては、無条件降伏がソ連説得のために必要であったことを挙げた。さらに、当時の枢軸国側のプロパカンダに絶好のチャンスを与えていたことや、蒋介石の役割分担についても見解を述べた。そして、無条件降伏方式がまずい方法であることを知りながらも、ドイツに対する連合国の戦勝声明の中に、日本側に対して無条件降伏の内容を説明する一連の文章を入れるなど、無条件降伏を解決する方法についても示唆していたことに注目した。

1944年6月にマッカーサーは米国太平洋陸軍内部に心理作戦部を設置し、日本軍捕虜から得たデータに基づき、日本兵の士気を低下させ、戦争の早期終結を目指すための心理作戦に着手した。米国の情報機関員らは、中国延安で暮らす捕虜に接触し、捕虜や捕虜の政治教育に当たっていた野坂参三(1892−1993)らの戦争観・天皇観などを聴取し、「延安レポート」として米国本国に送った。このレポートを基にした米中の対日心理作戦に共通する姿勢は、「戦場で戦っていた一般の日本兵が抱く天皇への尊崇(そんすう)の念を否定しないこと、また日本兵と軍首脳部の間にくさびを打ち込むこと」だったという。

加藤氏は、「戦争終盤において軍人と国民、軍人と天皇、軍部と天皇の関係が大きく変わった」と言い、「このことは、アメリカ軍と中国共産党八路軍のプロパカンダも大きく影響している」と話した。「プロパガンダが効くということは、九死に一生を得、捕虜となった日本軍兵士がそのように考えていたこと」だと述べ、「日本の民族としての天皇観が揺らいでいない」と指摘した。そして、「南原先生が考えていた『国が恥ずべきことをやった時に国民の一人一人もその恥ずべき行いに責任がある』という国家と個人を対比させた考え方に対し、そうではない考え方もあるのではないか」と問い掛けた。

また、天皇を「平和のシンボル」として利用する計画について加藤氏は、国民と天皇、一般の日本兵天皇の結びつきに注目し、「天皇シンボルは、軍部への批判の正当化と平和への復帰を促し、強化するために利用することが可能」と米国は考えていたことを説明した。また、この計画の中心となっていたのは、戦前美濃部達吉のもとで日本の政治について勉強をしていたチャールズ・ファーズだった。このことについて加藤氏は、「学問というものがどれだけ大事か。ファーズは、1935年の天皇機関説事件で何が起きたかを知っている」と話した。

天皇が戦争をやめるという意思は7月12日に米国に伝わり、18日には英国にも伝わったことは確認できる。このことから、原爆投下が避けられなかったのかということは検証しなければならない」と指摘した上で、「しかし、詔書をもって米国に伝えて、国民と皇室を結びつけて戦争を終結させる、この重さというのは申し上げておきたい」と述べた。
最後に加藤氏は、「南原先生のやられた一番重要なことは、『国民と天皇・皇室を近づけること』に尽きる」と述べ、「南原先生は自分たちがやったこと(終戦工作)は、何一つ歴史を動かせなったというようなことを語っているが、これは謙遜で、天皇がうろたえていた時に、皇室と国民を直結させていくことを思い出させるための詔書の言葉をどのように編み出させるかを教えている」と南原繁をはじめ当時の知識人に敬意を表した。

次に行われたパネルディスカッションは、「南原繁日中戦争・太平洋戦争の経験から学ぶもの」というテーマで3人のパネリストが登壇した。成蹊大学非常勤講師の木花章智(あきとも)氏は、「美濃部達吉と近代立憲思想−明治憲法明治憲法体制との間−」と題して話した。木花氏は、1889年に公布された大日本帝国憲法明治憲法)が、絶対主義の原理と近代立憲主義の諸原則を取り入れた二元性を持つものであったことを指摘し、このことと1912年に起こった「天皇機関説論争」が関係しているとした上で、美濃部の近代立憲主義に立つ自由主義憲法解釈が葬り去られた意味について考察した。

次に登壇した聖学院大学教授の村松晋氏は、「『言論抑圧』とキリスト者−南原・矢内原が敬愛した牧師・住谷天来をめぐって−」と題して話した。南原と矢内原と同時代に生きた伊勢崎教会(群馬県伊勢崎市)、甘楽(かんら)教会(群馬県富岡市)の牧師住谷天来(1869−1944)が残した『聖化』『黙庵詩鈔(もくあんししょう)』を通して、天来の信仰とその思想について語った。

3番目に登壇したのは、千葉大学特任研究員の宮崎文彦氏。「日本の自立・独立と世界平和への貢献−貴族院議員南原繁の発言から−」とのテーマで話した。昨年のシンポジウムでは、南原繁の政治哲学における「現実を理想に近接せしめる努力」という観点から話したのに引き続き、戦後70年に当たる今年は、そのような理論面における議論が現実の政治に対してどのような影響を与えたか、貴族院議員として新憲法制定の議論に加わった際の南原の発言から話した。

日本の政治学者で、東京帝国大学の総長を務めた南原繁(1889−1974)は、1910年に東京帝国大学入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者だった。南原繁研究会は2004年に設立された。月1回読書会を開催し、南原繁の思想を学び、読書会の成果を問う出版物の発行、シンポジウムの開催などを行っている。