Ⅱコリントの味わい、三題 その2

Ⅱコリントの味わい、三題 その2
 
「聖書に聞き、聖書に生きる」道を求める道を求める者として、Ⅱコリント全体の流れを大切にしながら。

★その1
Ⅱコリント1:1ー11
『すべての慰めの神』 讃美歌321

★その2
Ⅱコリント7:1ー7
『ともに生きるために』 聖歌201Ⅱコリント12:1ー10
★その3
『わたしの恵みは、あなたに十分』 讃美歌518

『ともに生きるために』
 Ⅱコリント7章1ー7節
[1]序
 7章1-7節の箇所で、パウロは、「私たちとともに死に、ともに生きるために」と、パウロたち宣教・牧会者たちとコリント教会の人々が生死をともにする関係に結ばれていると描きます。

[2]「心を開く」、1ー4節
(1)1節と2節以下
1節は、「私たちはこのような約束が与えられているのですから」判断できるように、6章で取り上げてきた事柄の上に立ち、その要約・結論として、「いっさいの霊肉の汚れから自分たちをきよめ、神を恐れかしこんできよきを全うしようではありませんか」と「神の恵みをむだに受けない」(6章1節)、きよめの生活・聖化の道を勧め、その一つの側面を、パウロは2節以下で記します。

(2)心を開く
きよめの生活・聖化の道を歩むように勧めたコリント教会の人々に対して、パウロはその一つの実践として、「私たちに対して心を開いてください」と、コリント教会の人々とパウロたちとの関係・人間関係に焦点を当て迫ります。
さらにパウロはコリント教会の人々に求めるだけでなく、自分たち自身についても「私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません」と牧会者・働き人としての当然の戦いを戦っている事実をと明らかにしています。

(3)3節
「前にも言ったように」は、6章11ー13節、「コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのでなく、自分たちの心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。」を指しているのは明らかです。パウロはまず自分たちがコリント教会の人々に対して心を広く開いている事実を明らかにし、彼らもパウロたちに対して自分の心を窮屈にせず、心を開くよう重ねて求めているのです。
 ではパウロがコリント教会の人々に対して心を開くとはどうすることなのでしょうか。4節で、パウロはコリント教会の人々に対する心の態度について、「私のあなたがたに対する信頼関係は大きい」と信頼関係をあげています。
また「私はあなたがたを大いに誇りとしています」と述べています(16節、「私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます」)。
 聖書は、「誇り」について否定的・消極的に述べているだけでなく、肯定的・積極的にも述べています。持たないほうが良い、さらに持ってはいけない誇りが何かを教えるだけではなく、持ってもよい、さらに持たねばならない誇りについても教えます。

[3]「慰めに満たされ」、5ー7節 
(1)4節後半
4節前半までの箇所で、パウロはコリント教会の人々に勧め、また自分自身の基本的な態度について明らかにして来ました。4節後半では、そのような勧めをなし、態度を保つ土台・基盤として、「私は慰めに満たされ」ているからとパウロははっきり語っています。
この5ー11節の箇所で「慰め」、「慰める」が鍵のことばであることは、繰り返し用いられている事実から判断できます。さらに このト全体において(特に1章3ー7節)。

(2)パウロ自身の経験
「私は慰めに満たされ」、その結果として、どのような生き方、生活をしているか。「どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています」(4節)。

(3)5節以下
パウロは、慰めに満たされている実例の一つとして、「マケドニヤに着いたとき」のこと告げます。
そのときの状態、「私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れ」。何故そのような状態になったかについては、2章12、13節参照。
6節、「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました」。誰が誰を慰めたのか、主なる神が気落ちした者たちを。どのようにして、パウロとテトス、テトスとコリント教会の人々の人間関係を用いて。

[4]結び
(1)心を開く
 地域教会内の交わり。牧師と会衆、信頼とつまづき。信頼できない牧師のメッセージを聞くつらさ。信頼されない会衆の前で宣教するつらさ。
牧師のための祈り、11章28、29節、 Ⅰペテロ5章2ー4節、ヘブル13章7、17節。
 会衆相互の交わり、ヨハネ福音書ヨハネの手紙に見る兄弟愛の勧めこそ、宣教の原点。その実例・模範として牧師同士の交わりのための祈り。 
 誤った分離の理解からの解放。周囲の家族をはじめキリスト者でない人々に対して、心を開く。周囲の人々を信頼する、信頼のする人々から信頼されるように。これが宣教・伝道の原点。そのためには、5章15節に見る、キリストのために生きる実践として、隣人・他者のために生きる。隣人とはだれか、よきサマリヤ人のたとえが指し示しています(ルカ10章25ー37節)。
 主にある兄弟姉妹に心を開いていない人が周囲のキリスト者でない人々に心を開くことは困難というより、不可能では。
 心を開くことと、妥協は別。分離すべきことを分離し、心を開き聖化の道を進む。
心を開くとは、愛(Ⅰコリント13章、特に7節)。
「そして愛というものが、ある場合には目をはっきりと開いて、すべてを信じ、ある場合には目を閉じて、真の未来を見るものであるということを知るのである」(ボンヘッハアー)。

(2)神の慰めを受けよ
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められます」(マタイ5章4節)。