「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その1

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その1


1昨年2014年9月に、クリスチャントゥデイ誌上で、「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」と題して、3回に分けて書いた文章の中で、以下のように記しました。
「・・・1980年代の初め青梅キリスト教会牧師時代、M夫人から、彼女の祖父・桐生悠々の名を初めて聞き、2冊の新書を頂きました。
桐生が信濃毎日新聞主筆であった1933年執筆の「関東防空大演習を嗤(わら)う」を読んで受けた強い印象、そうです、その12年後多くの都市が直面した空襲の悲惨を予告、たじろぐことなく記述する明晰な文章の力を、今でも鮮明に記憶しています。あの時から30数年後、今このとき、もう一度あの文章を精読しています。
そもそもMご夫妻との出会いは、私たちが米国に留学していた1967年、マサチューセッツ州ケンブリッジ市の同じアパートに住んだことによります。M氏は、道路公団から派遣されて、マサチューセッツ工科大学(MIT)に学んでおられ、私たちはとても親しくなり、やがてMご夫妻は、小さな日本語聖書研究会にも参加されるようになったのです。
私たちの交流は、帰国後もMご夫妻の国外勤務を挟んで継続、ついにご夫妻は吉祥寺教会で受洗しました。その前後、M夫人は、桐生悠々が子どもたちを皆ミッションスクールに進学させた事実を強調されながら、祖父・桐生悠々の名を伝え、2冊の新書を思いを込めて手渡してくださったのです。
すでに召天されたM夫人をしのびながら、桐生悠々との対話を改めて始めたいのです」。
 ところが、M氏、つまり、京都大学教授であられた森康男先生から、この夏、彌榮子夫人の説教集・「子供のための聖書のお話」が恵送されてきたのです。そこには、心を込めた、以下の「あとがき」が記されています。
「あとがき
この小冊子は、妻 彌榮子が日本基督教団吉祥寺教会で教会学校のお手伝いをしていた期間(一九八七年から九〇年まで)に、礼拝の中の「説教」として、他の先生と交代で子供たちに聖書のお話をしていた内容です。一部ワープロでパソコンの中に保存され、残りは原稿用紙に書き残されておりましたので、彼女の帰天後、私がワープロに入力し編集したものです。
すなわち、教会学校における、小学生から中学生の子供に対して彼女が行った「お説教」を収録したものです。この教会学校では、大人の礼拝と同じように聖書の何節かを順番に取り上げて、その内容について解説し、説教をする「講解説教」の形をとっていました。「お説教」と言うともっと堅い話かと想像しますが、彼女は信仰に入ったばかりの、あるいは、これから入ろうとする子どもたちに、難解な聖書の話を出来る限り平易に、かみ砕いて話そうと努力し、彼女自身「お説教」と言わずに、「子供のための聖書のお話」と題名をつけておりましたので、その題名を用いることとしました。
この小冊子は、前述の通り、彼女が教会学校のお手伝いをしていたおよそ四年間の間に交代で、子どもたちに話した聖書の話を集めて編集したものです。したがって、四、五週間に一度の割合で子どもたちにお話をするために、計三十一話しか残されておりませんでした。
これらを、聖書の話の順に並び替えて編集しました。教会学校で話した年月日を文末に記しましたが、記録のない文章もありました。また、「説教」のあと、お祈りをした記録があるものは、それを斜体で記しました。聖書の文章は、共同訳聖書実行委員会刊行「新共同訳聖書」(一九八七年)から引用し、楷書体で記しました。
また、空き頁には彼女が描いたスケッチをスキャンして配置しました。絵を描くことは彼女が最も親しんだ趣味でもありました。

マリア・テレジア 森 彌榮子は、二〇一三年十一月十五日に、三年余りの闘病の末に帰天しました。七十五歳と七ヶ月でした。
彼女は、一九八五年の復活祭の日に、家族とともに日本基督教団吉祥寺教会において、竹森満佐一牧師によって洗礼を受けました。その九年後、カトリック吉祥寺教会で献身礼を受け、その後、転居にともない、カトリック立川教会、カトリック河原町教会に転会しました。
彼女の信仰は、われわれが米国MITに留学中、同じアパートに住んでおられたハーバード大学神学部に留学中の、若い牧師夫妻MT氏との交流によって感化を受けたときから始まりました。帰国後、何年か経ってから、われわれの住居と同じ沿線に集会所を開かれ、彼の主催される信仰集会などに出席しておりました。そして、紹介された日本基督教団吉祥寺教会に通うことになりました。
吉祥寺教会では竹森牧師の指導を受け、信仰を深めて行きました。竹森牧師は東京神学大学の学長を務められた碩学の信仰者であり、厳格な指導者でした。また、くしくも、竹森牧師は、われわれ夫婦の高校時代の同級生で、私の大学時代の同級生でもあるYK氏の義理の伯父に当たる方でした。
彼女は、一言で言うと、慎み深い敬虔なキリスト教信者でした。その上、聖書を非常に熱心に読み、内外の多くのキリスト教関連書を熟読して勉強しておりました。前述の通り、吉祥寺教会時代は竹森牧師の指導を受けて、毎週教会学校のお手伝いをしていました。礼拝に出るわれわれよりも一時間も早く家を出て、教会の副牧師や他の信者の方々と一緒に、子どもたちの指導をしておりました。カトリックに転身してからは、上智大学の開放講座などを熱心に聴講しておりました。彼女の信仰には、多くの方々の感化やご指導がありました。前述の竹森牧師、MT氏夫妻、母方の伯父夫妻、その他、多くの信仰の友と言える方々の存在が挙げられます。これらの方々に改めて感謝します。
彼女が、深い信仰の内に天に帰って行ったことを感謝し、永遠の安息と安らぎを得られんことを祈って、この小冊子を編集しました。

二〇一六年五月
京都市桂坂にて 森 康男」

 私たちの交流を、率直に記して下さっています。
「彼女の信仰は、われわれが米国MITに留学中、同じアパートに住んでおられたハーバード大学神学部に留学中の、若い牧師夫妻MT氏との交流によって感化を受けたときから始まりました。帰国後、何年か経ってから、われわれの住居と同じ沿線に集会所を開かれ、彼の主催される信仰集会などに出席しておりました。そして、紹介された日本基督教団吉祥寺教会に通うことになりました」。 
これは、私たち夫婦にとり、深い喜びであり、身に余る光栄であり、俗な表現をすれば、何よりの勲章です。