「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その2

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その2


第一話 創造(創世記 第一章一〜三、二四〜三一)

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
 「光あれ。」
 こうして、光があった。

 神は言われた。
 「地はそれぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
 そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれをみて、良しとされた。神は言われた。
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ。」
 神は言われた。
 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 旧約聖書の書き出しは、「初めに、神は天地を創造された」と、宣言して始まります。なんと厳かで、なんと美しい響きでしょうか。聖書は、神さまの存在をわたくしたちに語りかけてくれる尊い本です。本の扉が開かれると、まず、すべての始まりに先立って、唯一の神がおいでになると、言うのです。
 「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます」と、思わず神さまにお答えしたくなるような、そんな美しい空を見たことがあるでしょうか。
 生れてはじめて、高く青い空や、白い雲、美しくて可愛い草や花に気づいたとき、わたしたちは幼いながら、きっと、素直にその素晴らしさに驚いたにちがいないのです。けれども、頭の上に広がっている空や、足下にある大地がイエス・キリストの父なる神さまと深い関係があるとは、だれも知らなかったのではないでしょうか。わたくしたちは大きくなるにつれて、幼い日の率直に近い驚きを忘れてしまいました。なぜなら、この世界には他にも、わたくしたちを楽しませてくれる物がたくさんあるからです。
 それらの多くの物は、人間が作ったり考え出したりした物がほとんどです。人間が生きていくのに、楽しみや便利さを求めて、いろいろと工夫を試みたり考え出したりした物を、全部いけないものとは思いません。そのような物にも、なくてはならない物もあるからです。けれども、いつも自分が作った物のことばかりを思い、自分の力であらゆることができるのだと自惚れていますと、次第に人間は心の狭い人になって、いつかはほんとうに悲しい日が来てしまいます。
 
ですから今朝、聖書が「初めに、神は天地を創造された」と、わたしたちに呼びかけて、神さまの存在を、あらためて心のうちに留めるようにして下さっているのは、神さまの恵みだと思われます。
 「主を畏れることは知恵の初めである」と、旧約聖書の「詩編」(第百十一章一〇)は教えてくれます。神さまを知って、崇めることは、わたしたち人間に与えられたあらゆる知恵の中でも一番大切な知恵です。この知恵が大切にされて人間の営みのすべての基になれば、わたしたちは神さまがお望みになる美しい秩序ある世界に、生きることを許されているのです。でも、残念ながらこのことに思い至る人はそれほど多くはないようです。
 ですから、旧約聖書は他のところで、
 「青春の日々にこそ、あなたの創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに」(「コヘレトの言葉」第十二章一)とも注意しています。わたしたちが子供のときから神さまを知らされているのも、また、大きな恵みではないでしょうか。
 わたしたちがまだ赤ちゃんだったころ、この世界のことは何も分かりませんでした。お乳をくれるお母さんの顔だけが、なんとなく親しく分かる程度だったかも知れません。身の回りのものがたとえ見えたとしても、それが何であるか、全く知ることはありませんでした。
 この天地の創造のときにも、神さま以外のものは、みな、闇の中にあるように無いに等しくて、はっきりしていませんでした。そのような闇の世界に、神さまが「光あれ」と、言われたと聖書は語っています。神さまの呼びかけに答えるかのように、「こうして、光が」闇の中に注がれたのです。
 
このような聖書のお話を、宇宙の科学のお話と取り違えてしまう人が時折いますが、聖書は科学の本ではありません。信仰のお話の本です。神さまと人間の関係を教え、人間が神さまの愛の光に照らされて、よりよく生かされていくために、神さまの言葉によって書かれた本だと言えると思います。神さまの言葉というのは、すこし不思議な言い方ですが、神さまの思いと言えるかも知れません。ですから、「光あれ」と言われたこの光は、天文学や物理学で言う太陽の光ではないようです。神さまが太陽や月や星をお造りになったのは、聖書の同じ章の一四節から書かれています。
 
では、初めのこの光とは何でしょうか。この光こそ、科学で考えられるものではなくて、信仰によって見なければならないものかも知れません。
 神さまが「光あれ」と言われた、その光の下に、つぎつぎとこの世界を照らす太陽も月も星、そして、実のなる木や種をつける草、海の魚、空の鳥、地の獣など、ありとあらゆる生きものが造られていきました。わたくしたち人間は、この光の下に特に神さまの愛を受けて造られたと思います。信仰を抱くことができる動物がいるとしたら、人間だけではないでしょうか。人間だけが神さまを信じて祈ることを知らされています。信仰を抱くことが許されている人間だけに、この世の生きとし生けるものの総ての管理を、神さまは託してくださったのです。ですから、この管理人が主である神さまを忘れて離れるようなことがあれば、それはたいへん無責任ですし、大きな罪であると言わなくてはなりません。
 けれども、旧約聖書をみていきますと、人間の歴史はくりかえし神さまを忘れて罪を重ねていく歴史です。それなのにどうして、神さまは人間をそれほどまでにみ心にかけてくださり、動物に勝り、神さまのご性格にまで似せてお造りになったのでしょうか。なぜ、わたくしは生まれてきたのでしょうか。なぜ、今朝もまた、わたしたちを教会へ招いて、神さまのもとに引き寄せてくださるのでしょうか。先週の生活を振り返ってみても、わたしが神さまにたいして完全に善い人だったとは思いません。それでも神さまはわたしたちを聖日ごとに教会へと招いてくださっています。なぜなのでしょう。そのわけは、「光あれ」と言われた、あの光、神さまのもとにすべてのものが造られ生かされ、秩序あるものとされるあの光の中に、わたしたちがもう一度生きるためなのです。
  「神から遣わされた一人の人がいた。
  その人は光について証するために来た。
  その光は、まことの光で夜に来て、
  すべての人を照らすのである。」
 
新約聖書の「ヨハネによる福音書」で、洗礼者ヨハネが「光」について証するために神さまに遣わされたのですと言っています。まことの光とはイエス・キリストのことを指し示しています。わたしたちは、イエスさまという光に出会うために教会へ招かれています。神さまのひとり子として、恵みと真理に満ちていらっしゃるイエスさまのみ言葉を聞いて、神さまの新しい創造物として、恵みの上にさらに恵みを受けて生かされていくのです。
 「心の豊かさ」が必要だとよく言いますが、わたしたちは皆、イエスさまの満ちあふれる豊かさの中からほんとうの「光」が、注ぎ出ていることを忘れてはならないと思います。その豊かさを知らないで、どうしてまことの豊かさが望めるのでしょう。
一九八九・一〇・一五