1990年代、沖縄から、佐藤全弘先生への最初期の手紙 その2また佐藤先生による書評再録

1990年代、沖縄から、佐藤全弘先生への最初期の手紙 その2また佐藤先生による書評再録

心からの感謝
 1992年、大阪市立大学名誉教授佐藤全弘に、最初にお会いしました。
佐藤先生が、内村鑑三記念講演会でのご講演のため来沖なさった際、第1回首里学生センターで、現代大学で学ぶ意味について講演下さった際です。
 その時を契機に文通を通して、今日まで類まれなご教授を頂いてきました。その背景の中で、2009年11月に出版された、著作集1『愛の業としての説教』の書評を、私が12月に脳梗塞を発症に続き3箇月入院した直後、[月刊]キリスト教書評誌『本のひろば』にお書き下さったのです。
 この文を通して、終始困難に直面し続ける状況の中で、心底励ましを受けています。そうです、今この時も、心より感謝。

「頌主
 この度は、主なる神のご真実な導きの中、佐藤全弘先生を私ども首里福音教会の第一回首里福音学生センター講演会の講師としてお迎えすることができ、心より感謝しております。私どもの群にとりまして、貴重な記念の集会であり、今回の方向を示された思いです。七月十二日の、教会役員会でも、役員各自がどのように御講演を受けとめることが許されたかを確認できました。
 
七月五日の御講演も、感話会での応答にありました通り、今、沖縄の主にある民にとって、一つのはっきりとした指針を指し示される貴重な機会であったと感謝しております。
私個人としましても、『聖書解釈学』の授業において、将来牧師として立たされるべく備えている若き兄姉方に伝えてきた、聖書の構造、特に契約構造について、御講演の主旨と重なる点が多く、深く励ましを受けました。
 七月六日から十日まで、聖書神学舎夏期研修講座、『宗教的多元主義と唯一の救い主イエス・キリスト』に参加してきたところです。期間中、佐藤先生の『新渡戸稲造の信仰と理想』を読まして頂き、今回の主題についても光を与えられ感謝でした。
 
佐藤先生の尊い研究、教育のお働きの上に、日々豊かな祝福がありますように。感謝と共に。
 九二年七月十五日 宮村武夫 
佐藤全弘先生」

★書評再録
宮村武夫著作1 『愛の業としての説教』
福音は時をこえ、所をこえて
                    佐藤全弘

「宮村武夫著作」の最初の一冊として、『愛の業としての説教』が刊行された。著者の七十歳を期して、編集刊行が始まったのである。
 
 第一巻は第二部に本巻と同じ表題の下に七つの(、、)の論考が収められ、第二部は「日本クリスチャン・カレッジに学んで」という題で三つの(、、)文が、第三部の「神学エッセイ」には十二(、、)のエッセイが編まれている。七、三、十二という数に編集実務委員会の配慮が感じられる。
 著者は一九三九年生まれ、日本クリスチャン・カレッジからアメリカのゴードン神学校、そしてハーバーと大学で新約聖書学を学び、さらに上智大学で組織神学を修め、長年沖縄の首里福音教会を牧し、現在は日本センド派遣会総主事である。
 第一部巻頭の「愛の業としての説教」は、二〇〇二年十一月、福音主義神学会題十一回全国研究会議で述べられたもので、著者が聖書を学び伝える根本姿勢が、ヘブル人への手紙等を通して展開されている。発信人(、、、)と受信人(、、、)が生きて福音を授受したその今、(、)ここ(、、)を現代に生きる私たち各自が、自分たちの生きる今(、、)、ここ(、、)として受けとめるよう力説する。説教者は時代をこえて進む神の恵みを示す聖書の呼びかけに耳を傾け、各人がその立場持ち場で応答するよう、という。
 聖書は、聖霊(、、)が各記者を助け導いて書かせた神の言(、、、)であり、それゆえに今同じ聖霊(、、、、)に導かれて読む信徒も、イエスに従うのである。聖書は三位一体の神が今ここ(、、、)で語りかける、愛の手紙(、、、、)である。この愛の手紙は、イエスから弟子たちへ、弟子たちからその受信者へ伝わり、そして神が受信者の内に留まられ、時・所をこえてすべての人を一体とされる。歴史全体を支配される神は、時代の隔たり、所の相異をこえて、私たちを導かれるのである。
 「ルツの神」はまことに美しい一篇である。異邦人ルツは、姑ナオミの信じる神を己が神として、カナンの地へつき従い、落ち穂拾いをし、全力を尽くして日々の仕事にはげみ、ボアズと結婚してダビデの先祖となる。しかし個人(、、)ルツはイスラエルの民の全体史(、、、)では無に等しい。ところが神はこのルツを見捨てず、マタイ福音書系図の中にその名を留められた。このルツに注がれる神の眼差し(、、、、)を、今ここ(、、、)に生きる私たちも感じていきたい。他の人々との共同の中で、真実を尽くして。歴史の中のほんの(、、、)一瞬だけを生きる私たちにとって、この講解の与える慰めは大きい。
 
第二部は著者の二〇代前半の文を集める。
 その中で「教育者としての内村鑑三」は六割を占める力作である。著者の今日まで続く内村鑑三への深い学びの凝縮がここに示される。著者と内村との魂の共鳴が伝わってくる。著者がよき牧者であると同時に、よき教育者(、、、)となるに至った一つの里程標がこの文であるといえようか。
 書記の札幌農学校に学んだ青年たちは、原野のひろがる、人は僅か三千の極北の地にあって、神(、)と人(、)(友)と自然(、、)を与えられ、生きる方向を決定された。内村、新渡戸、宮部、広井勇、伊藤一隆、大島正健ら皆そうである。著者は内村の文に即し、その教育観の全体に目を投じる。そこには、この文が書かれた四〇年前はもちろん、混迷を究める今の日本の教育に対する誤りなき指針が数多く見出せる。
 
 第三部の十二篇は、それぞれ具体的な人々との交わりの中から、神(、)と人(、)と自然の根本的真理に触れて著者が奏でる小曲集ともいうべく、小学校時代の先生、高名な牧師、神学校の卒業生たち、かつて短大で教えた女子学生、そして愛農学園(筆者はその理事)に学ぶ著者の長男への思いなど、神と人を恵みで結び御旨を成したもう聖霊の導きが、淡々と語られている。神が今(、)、ここ(、、)日本で働いておられる証しがここにある。
 
 以上、本書の一部をご紹介した。今、私の心からの祈りは、昨年十二月十八日脳梗塞に倒れ、今リハビリ中の著者の回復の速火ならんことと、聖書のみにすがって生きる証し人の子の証言が福音前進の為祝用されることである。
(さとう・まさひろなにわ 聖書研究会主宰、キリスト教愛真高校理事長、大阪市立大学名誉教授)
(四六判・三二八頁・定価一八九〇円〔税込〕・ヨベル)