「『志に生きる著者の聖書講解書に、志を抱き学ぶ読者の一人として』

『志に生きる著者の聖書講解書に、志を抱き学ぶ読者の一人として』
 
 JTJの岸義紘先生の『ガラテヤ人への手紙 テキスト分解・注解・講解説教』について推薦文の依頼を受け、快諾、以下の文を書きました。
 岸先生との出会いは、1969年、当時国立にあったTCCグランドで開かれた神学校ソフトボール大会での聖契神学校とTCCの試合でした。
 その年初めて教壇に立った私は学生のチームに加えてもらったのです。
岸先生の表現で言えば、「先生(宮村)が痛烈な三塁強襲安打を放った」のです。岸先生の印象によほど深く残ったと見え、それから20年余して、沖縄でお会いした時の話題は、もっぱら、あの痛烈な三塁強襲安打についてでした。確かに手ごたえのあった会心の一撃でした。
 今回の一文も、語り草となる効果を発揮すれば、うれしいです。

「『志に生きる著者の聖書講解書に、志を抱き学ぶ読者の一人として』 
                        宮村武夫

今回、紹介する光栄を与えられた岸義紘先生の『ガラテヤ人への手紙 テキスト分解・注解・講解説教』の特徴を一言で言えば、志に生きる者の聖書講解書です。
 この場合の「志」とは、ピリピ2章13節、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」で明示する、祈りを通して父なる神ご自身が祈り手のうちに与え、事を行わせる志です。
 ですから、本書を購入し活用する読者も、同じく志を抱きつつ著者である岸先生と共にガラテヤ人への手紙を自分自身も読み続ける覚悟を迫られるのです。これこそ、本書の「おわりに」において岸先生が明言している、JTJ宣教神学校の卒業生をはじめ、本注解書を用いる者が「じっくりと『ガラテヤ人への手紙』を学んでもらう」との目的にかなう応答です。その営みの中から、「主イエスさまから委ねられた会衆の期待を裏切らない、良く整えられた、優れた講解説教が産み出されますよう」にとの岸先生の祈りが時の経過の中で成就していくに違いありません。

 本注解書の「もくじ」に見る三部構造において、本書の特徴が明らかです。
第一部「全体を知るために」、第二部「テキスト分解/注解/講解」、第三部「講解説教」。第一部の表題に含まれている「全体」に意を注ぐ必要があります。第一部はさらに4つの小項目に分かれています。1中心テーマ、2アウトライン、3パウロの論旨、4執筆の背景。そうです、岸先生は、ガラテヤ書で何が中心テーマであるか、その主題をはっきりと把握なさっています。さらに、その主題が、手紙の中でどのように展開しているか、ひたすらテキストに聴従しながら主題を心に焼き付けているのです。
このひたすら受け身の営みを通し、なぜパウロがガラテヤ人への手紙を書いているのか、パウロの心のマグマに触れ、同じく心燃やされながら、本書の細部に至るまでテキストに聞き切るのです。under stand、テキストの下に身を置く道です。これこそ、理解への道です。この道を岸先生ご自身が歩まれ、本注解書を用いる私たちに同じ道を歩むように招いておられます。

 聖書テキストの下に自分自身の生活と生涯を徹底的に置き、聴従する。あの有名なだれだれさんが、この高名な学者がと次から次の引用ではないのです。俗な表現を用いれば、「人のふんどしで相撲を取らない」「一寸の虫にも五分の魂」。自分の目、自分の頭、自分の心を注いで聖書テキストに全力で聞くのです。本注解の初めから終わりまで一貫している特徴は、この基本的態度です。その特徴が最もよく提示しているのは、本書377〜395ページの「講解説教のための各章の分解」です。これは、特に大切な箇所と理解します。
 この部分に凝縮、提示されている成果は、小学校上級の国語のクラスで私が担任の教師から学んだ文章を素直に読む、ひたすらに聞く営みを通して把握されたものです。誤解を恐れないで言えば、ギリシャ語や歴史的背景など、専門的な知識がなければ得られないものではない。主の御声を聞きたい、聞いて従いたい、従って生活し生涯を送りたい。その心と生活と生涯から、主の御言葉をなんとか伝えたい、この志を持つ小学校の国語教育を受けた者全てに開かれている普通の道です。
 この道を日々に生涯の終わりまで歩みきる志を持つ者にとって、ギリシャ語や歴史的背景など専門的な知識は、「鬼に金棒」的な役割を果たすに違いありません。そのためにこそ、本注解書は有効と判断します。

 本書の「はじめに」を見ると、岸先生の生活と生涯が率直に語られています。この自らを注ぎ込む基本的な態度は、248ページ以下の第三部「講解説教」においても全く同じ、いやさらに徹底しています。岸義紘ご自身の存在を離れて「はじめに」も「講解説教」も成り立ちません。本書に学ぶ者も、全く同じく自らを注いで聖書の下に身を置く覚悟を抜きに、本書を自分の目的、たとえそれが説教をつくるという一見良い目的のように見えても、利用することはできない。本書は、まさに志と志の間にのみ伝達されるたぐいの書です。そうした書として推薦します」。